yoga school kailas

9月27日読書会 「ダンマパダ」その3

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より

9月27日読書会 「ダンマパダ」その3

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。

……はい、ここまでで何かありますか?…………はい、次のところ、Rちゃんお願いします。」

Rちゃん「われらは、ここにあって死ぬはずのものであると覚悟しよう。---このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。」

先生「はい。ここは、あの、何回か出ている、しっかり死というものを認識しないといけないということですね。あの、これはミラレーパの死でもありますが、あの、ちょっと出会ったに過ぎない親戚や友人達と、争い合うとはお笑いであると、っていうことをミラレパは言っている。つまり本当にカルマとか縁の微妙なタイミングによって、我々は今、出会っているんです。
 で、それは、しかもいつ終わるかも分からない。自分が死ぬかもしれないし、相手が死ぬかもしれない。だからまあ、日本にある、一期一会というその諺はとっても素晴らしいわけだけど、この出会いっていうのは本当に一瞬かもしれないんですよ。で、これで終わりかもしれないんです。
 凄い貴重なものなんだ。だからそれは、本当に、自分と他人の、あの、進化とか幸福のためにこそ使われるべきなんだ。でも我々は、過去とか未来に対して、まあいつも言うように、無駄な妄想をするんだね。さっきも言ったように、ああ、こいつに俺は、こんなことをされたとかね。あと未来のことも妄想するわけでしょ。ああ、また明日も出会って明後日も出会うから、もうこいつとはこういう風に態度を取っておこうかなとか、こんなくだらない発想しかしないんだね(笑)。そうじゃなくて、まさに今、出会って、もう出会えないかもしれない。自分も死ぬかもしれないし、相手も死ぬかもしれない。こういう、なんていうかな、あの、シビアなっていうか、まあ、ここではあの、覚悟ってあるけども、まさに覚悟だと思うね。私は覚悟という言葉がとても好きなんだけども、あの、覚悟なんですよ本当に。 もう、私は1秒後に死ぬかもしんないんだぞと。そういう世界に我々は生きているんだぞと。
 これを曖昧にじゃなくて、覚悟を持って考えるわけだ。そしたら真剣にならざるを得ない。相手とこう、いがみ合っている暇などない(笑)。というのが、ここんところだね。
 ………はい、他は特にないかな。
 ………じゃ、次のところTさん」

T君「あ、ちょっといいですか。あ、ちょっと今、うちの婆ちゃんのこと思い出して」

先生「うん」

T君「今婆ちゃん胃癌でヤバイ状態なんですけど、その婆ちゃん見てたら、もう死ぬんだなって分かってるから、なんか慈愛みたいのが沸いたっていうか」

先生「あ、自分に?」

T君「あ、はい。なんか死にそうな人を見たら責める気になれないっていうか。」

先生「うん」

T君「だから、この争いがしずまるっていう部分を見て、そういうなんていうか、無常を知って慈愛が出てくるみたいな、そういうニュアンスなのかなって思ったんですけど。」

先生「まあ、それもあるかもしれないね、発展的なものとして。まあ、だから、仏教っていうのはさ、あの、まず、基本的な、自己のエゴを滅するっていう教えがあって、それから大乗的な、人の幸福のために活動するっていうか。その上に密教的な、あの、なんて言ったらいいかな、色々な法則や考え方を利用して、最もスピーディーな方法を取ると、この三段階の教えがあると。例えばこういった経典一つをポッと見た時も、当然その三つの角度から捉えることができる。これは原始仏教の教えだから、これだけただ見たら確かに、単純に、なんていうかな、無常だから、全ては意味がないんだよ、で終わってもいいし、あるいはT君が言ったように、大乗的に、だからこそ相手への慈愛が出るんだって考えてもいいし、それは色んな発想っていうか、膨らませて考えたらいいと思う。

 元々ねえ、大乗経典っていうか、大乗仏教っていうのはそういうものだと思うんですよ。お釈迦様の教えっていうのは凄くシンプルで、あの、なんていうかな、細かく説明されているわけじゃない。ただ、ズバっとエッセンスが説かれていて、それでそれは、単純にその、自分の解脱のためにと考えることもできるけど、見方次第では確かに人の幸福のためっていう見方もできるんだね。その部分をこう発展させてまとめていったものが大乗の教えだね。………まぁ、T君は優しいからね(笑)。そういう発想ができるんだよね。

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