3.忍耐の完成--光を発する
3.忍耐の完成--光を発する
菩薩の第三の修行は、忍耐の完成の修行です。
この忍耐の完成にも、さまざまな意味があると考えられます。
まず、菩薩になるには、単純に自己一人の解脱を求めるときよりも、徹底的な自己のカルマの浄化が求められます。
そのために、自動的に、そのカルマの浄化のために、強烈な苦しみの中に放り込まれる時期があります。
それに耐えなければなりません。
それは衆生を救うためだと考え、耐え続けるわけです。
そして自分のカルマの浄化だけではなく、菩薩の道というのは、他者を救おうということの実践でもありますから、その過程でまた多くの苦悩が生じることになるでしょう。そしてそれに対しても忍耐しなければなりません。
また、菩薩は「一切は空である」といったような、究極の真理を悟らなければなりません。
それは無智迷妄な心には、最初は非常に恐ろしく感じ、逃げたくなることがあります。
しかし逃げずに耐え、真実を見つめる訓練をしなければなりません。
また、別の観点から言うならば、
布施--相手に自分の幸福を与えること
持戒--自分のエゴで相手に不幸を与えないこと
忍耐--相手の苦悩を引き受けること
ということもいえるかもしれません。
相手の不幸を引き受けるとはどういうことでしょうか?
相手の苦悩を実際にエネルギー的に背負えるのか、あるいは相手のカルマを背負うということができるのか、といったことについての検討は、ここではひとまず置いておきましょう。
そうではなくて、もう少し日常的なことで考えてみます。
たとえばある人が憎しみに満ち、攻撃を自分にしてきたとき。
私たちは「あの人はひどい人だ」とその相手を非難しがちですが、よく考えたら、そのように人を攻撃しなければならない人こそ、大きな苦しみの中にいるということに気づかなければなりません。
菩薩の道を歩こうとした人は、少なくともそのような苦悩は持つことなく、真理の道を歩む喜びに満ちていることでしょう。それならば、相手が自分を攻撃することで、少しでも相手の気が安らぐのなら、それでいいじゃないですか。
これは一例ですが、このような目で自分の周りを見た場合、忍耐=相手の苦悩を引き受ける、という公式に当てはまることが多くあります。
これもこの辺にしておきましょう。これはあくまでも私の見解ですので、これもまた興味のある方は検討されてみてください。
そして相手の不幸を引き受けるということは、悲すなわち哀れみの実践ということになります。
さて、この忍耐の完成によって、「光を発する」と呼ばれる菩薩の境地に至るといわれます。
仏典をいろいろ見ると、「前生の忍耐の修行によって、美しく生まれた」などという表現が出てくることがあります。
ですから忍耐というのは、視覚的にも光り輝くような、美しい容姿を作る秘密なのかもしれません。
特に、「罵倒や悪口に耐える」ということは、美しくなる秘訣です(笑)。
なぜでしょうか? それは、言葉のカルマと容姿の美しさは関係があるといわれるからです。
簡単に言うと、悪口ばかり言っている人は怖い顔になるし、批判や嫌味ばかり言っている人はきつく嫌味な顔になるし、冗談ばかり言う人は面白い顔になるし、否定的なことばかり言う人は暗い顔になるでしょう。
逆に、優しい言葉を語る人は優しい顔に、美しい言葉を語る人は美しい顔に、肯定的な言葉を語る人は明るい顔に、真理を常に語る人は光り輝く印象を与える容姿を得るでしょう。
これらは転生を待たずとも、今生でも現われることです。
そして逆に、人から悪口を言われたりすることは、自分の悪しき言葉のカルマを浄化することになるのです。それにより、良い言葉のカルマだけが残ることになり、その人の容姿を美しくするわけです。
もちろん、悪口を言われても、言い返したり愚痴を言っていてはだめですよ(笑)。それでは言葉のカルマは浄化されず、美しくなれません(笑)。それから、悪口を言われて、心に悪意や憎しみを持つのももちろん駄目です。「ああ、カルマが浄化されて良かったな」と喜び、また、「ああ、この人がこのような悪口や罵倒をしなければ生きていけないような状態から解放されてほしいな」という慈悲の心を持ってください。
そして実はこのような修行は、密教の「幻身のヨーガ」という秘儀に通じる基礎でもあります。
また、色界について考えてみますと、色界の第二カテゴリーは慈悲の悲、すなわち哀れみの世界であり、またそこは光の天界と呼ばれます。だからまさに公式的にはぴったりなんですね。
忍耐の完成
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「光を発する」という菩薩の境地
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四無量心の二番目、相手の苦悩を引き受ける悲(哀れみ)の境地
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色界の第二段階「光の天界」
さて、「慈悲」と「光」ということについて、私の体験を一つお話しましょう。
それは瞑想で非常に深い意識に入り、悪趣の世界を経験していたときのことです。
そこは地獄なのか動物界なのか餓鬼界なのかハッキリしませんでしたが、とにかくものすごく苦しい世界でした。そこにいるだけで苦しい、という、暗黒と恐怖と苦痛の世界でした。
私は瞑想とはいえ、意識がそこに完全に没入してしまい、実際に非常に苦しんでいました。
しかしふと周りを見渡すと、自分以外にもその世界に多くの生き物がいて、同様に苦しみにのた打ち回っていることに気づきました。
それを見たとき、私の中に、論理ではなく純粋な思いとして--というのは非常に深い意識なので通常の論理的思考はしづらくなっているので--純粋な思いとして、「彼らを救いたい! 救わなければ!」という思いが沸き起こってきました。
そして強く「救おう!」と思った瞬間、世界が変わり、悪趣は消え、すべてが光に包まれた世界になったのです。
ポイントは、私が悪趣からその光の世界にヒューッと飛んでいったんじゃないんですよ(笑)。私はそこにいて、周りの世界のほうが変わったのです。
このときだけではなく、同様の体験を何度もするうちに、このように悟りました。
「絶対的客観的世界が何かあるわけではない。すべては心があらわしているに過ぎない。」
「そして、エゴは暗闇の悪趣を創造し、慈悲の心は光の至福の世界を創造する。」
この非常に単純で純粋な真実に気づいたのです。
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