12縁起の法とカルマの流れ
12縁起の法というのは、仏教の根幹を成す教えですが、この真義については古今東西、さまざまな解釈がなされてきました。
私自身は、以下のようなさまざまな意味合いがあると考えています。
①瞬間瞬間、心の働きと現象が生じるプロセス
②生命体が死んでから生まれ変わるまでのプロセス
③生命体がこの世で行動し、それによって生まれ変わるまでのプロセス
④生命体が無明によって輪廻に落下してきたプロセス
⑤カルマの法則の流れのプロセス
⑥その他(省略)
⑦上記のいくつかまたはすべてを混合したプロセス
この中で今回は、⑤の、カルマの法則の流れを説明したプロセスについて、簡単に書いてみたいと思います。
12縁起をこのようなかたちで解説した例は、私の知る限りでは、ありません。ですから以下に書くことは、どこかの論書などにある説ではなく、あくまでも私の個人的な解釈であるということはお断りしておきます。その上で、参考にできる部分があればぜひ参考にされてください。
1.実際は実在しない現実と呼ばれる世界の物事や行為を実体視する「無明」によって、
2.過去になした行為によりインプットされた情報(「行」)は、生き生きと活動を始めます。
3.この「行」によって、「識」、つまりわれわれの意識が生じます。
この意識は、「行」のベクトルによって、ある観念的な傾向を持っています。
「カルマの果報」というのは、二つあります。
一つは、行為の結果として、自分がなした行為と同様のことが自分に返ってくるということです。
もう一つは、行為の結果として、われわれの意識のベクトルが決定されてしまうということです。
つまり行為をしたことによってインプットされた「行」のデータが、すぐさま次の「識」を形作ってしまうということです。
4.「名色」、これは簡単に書きますが、名色=五蘊なので、ここで自我意識の形成がなされるといっていいでしょう。「行」と「識」の働きにより、自我意識が確定されるのです。
生き生きとした「行」の動きは、「欲求」と「カルマの返り」という二つの可能性を内在しています。その可能性の受け皿として、五蘊=自我が必要なのです。「私」という感覚がなかったら、欲求する主体はありませんし、カルマの返りを受ける受け皿もなくなりますからね。
つまり、五蘊=自我意識というのは、常に存在しているものではなく、瞬間瞬間、生じては消えているものだと思います。生じては消えるプロセスが間断なく続いているため、まるで常に存在しているように見えるのです。しかしもしわれわれが瞑想などで、少なくともこの名色以前のプロセスに立ち返ることができたら、少なくともその瞬間は、五蘊=自我意識は消えることになります。もちろん、数秒後にはまた生起しているかもしれませんが(笑)。
5.「六処」、これも簡単に書きますと、「名色」で自我意識が確立されたということは、当然、その対称である「他者」や「外的環境」が生じ、自分がその他者や外的環境と接触する可能性が生じます。
これは言い方を換えれば、自分にカルマの果報を与えてくれる他者や外的環境が整うということです。
あるいは、自分が欲求を向ける他者や外的環境が整うということです。
6.そしてその「名色=五蘊=自我意識」と、外的環境および他者が、「触(=接触)」します。
これはここでは、カルマの果報といっておきましょう。
つまり過去になした行為が「行」としてインプットされたものが、逆転現象を起こし、五蘊=自我意識に、他者や外的環境が何かの影響を与えるというかたちで返ってくるというわけです。
たとえば簡単な例を挙げるならば、過去に他者に悪口を言ったことによって、今、逆に自分が他者に悪口を言われる、というようなことですね。
7.カルマが返ってくることによって、「受」が生じます。そもそもわれわれが自我意識にとらわれていなければ「受」は生じないのですが、とらわれているので、「受」が生じるのです。つまりその返ってきたカルマに対する、反応が生じるのです。もちろんこの反応の内容は、実体がありません。あるカルマが返ってきたときにどういう反応が生じるのかは、「行」と「識」が決定します。たとえばプライドの強さを形成するような「行」が多くあり、それによって「識」の方向性がプライドの強さを示していたら、悪口を言われるという現象は、耐えがたい苦しみとして感受されるでしょう。しかしそれは他の人にとっては、別に苦しみでない場合もあります。
8.「行」や「識」の影響によって、現象に対する偏った反応(受)が瞬間的に生じてしまうのはしょうがないとして、そこで終われれば、つまりすぐに心を切り替えられれば問題はないのですが、人はそこでその反応に対して、強い「愛」を抱きます。「愛」という言葉は勘違いされやすいですが、愛情とかのことを言っているわけではなく、渇愛(タンハー)と呼ばれるものです。つまり、「行」や「識」の影響によってほとんど無意識的に生じた反応に対して、強い好感や嫌悪の気持ちを持ってしまうというわけです。
9.この好感や嫌悪の気持ちも、短い間の感情で終わればいいのですが、それは知らず知らずのうちに、「取」、すなわち強い執着、とらわれへと変わります。
たとえば例を挙げますと、過去に他者に悪口を言ったというカルマ(「行」)の果報として、他者に悪口を言われるという現象(触)が生じ、それに対して、「行」「識」の影響によって苦しいという感じ(受)が生じます。そしてその苦しみへの嫌悪感(愛)が生じます。
この嫌悪感を、この人は「わざわざ」、修習するようになります。「ああ、私はこんなことをされた、ああ、私はこんなことを言われた」ということを、考えなくてもいいのに考え続けます。表層意識でも考えるし、潜在意識でも考えます。
これによってこの人は、仕返しをしようと思うかもしれません。あるいは仕返しをしないまでも、潜在意識が、その相手に対しては冷たい態度をとろうという方向を選択するかもしれません。
これが「取」です。
もう一つ、善行のパターンで説明しますと、たとえば、過去に人を称賛したカルマ(「行」)の果報として、他者に称賛されるという現象(触)が生じ、それに対して、「行」「識」の影響によって嬉しいという感じ(受)が生じます。そしてその喜びへの好感(愛)が生じます。
この好感を、その人は修習するようになります。「ああ、わたしはこんなことをされて嬉しいなあ。ああ、私はこんなことを言われて嬉しいなあ」ということを、考え続けます。表層意識でも考えるし、潜在意識でも考えます。
これによってこの人は、もっと称賛を受けたいと考えるかもしれません。あるいは逆に、今度は称賛を受けられなかったときに、苦しみの「受」が生じ、嫌悪の「愛」が生じるかもしれません。このようにして、「取」、つまりとらわれていくのです。
10.こうして、カルマから生じた現象に対する好感や嫌悪感にとらわれた人は、そこからまた新たな行為(アクション)を起こそうとします。その舞台は当然、この輪廻の生存の世界(「有」)です。これによってわれわれはこの輪廻の生存の世界に強く結び付けられます。これが「有」です。つまり逆に言えば、われわれは多くの「とらわれ(取)」によって、この世で何事かを行為したいという欲求により、瞬間瞬間、この輪廻の生存の世界(「有」)に結び付けられているのです。
11.そしてその強い好感や嫌悪感から来る行為(アクション)の欲求を満たすため、われわれは瞬間瞬間、この世に生まれ出て(「生」)、さまざまな行為を行ないます。
つまりここでの「生」とは、お母さんのお腹からこの世に生まれ出るということではなく、われわれがカルマの果報に対する反応として、瞬間瞬間、この世に出現して、またもやこの世でさまざまな行為を行なってしまうこと、と解釈します。
そしてもちろん、その行為はまた、「行」にインプットされ、回転するカルマの輪というろくろに、また一つのベクトルを加えます。
12.十二縁起の最後は「老・死」です。通常の十二縁起の解釈では、ここは当然、この世に生まれ出たわれわれが老い、死んでいくという解釈ですが、今回の解釈でも、そのようにとってもかまいません。つまりこの輪廻の生存を舞台にカルマの果報が返り、そのカルマの果報に対してまた新たな行為(アクション)を返すというこの「カルマの輪の回転」の舞台として、この「現実」と呼ばれる世界での人生があるわけですが、その受け皿としての五蘊の肉体は、老い、死んでいきます。
死というのは、カルマの果報のベクトルが大きく変わるきっかけとなります。内在していたカルマのうち、たとえば人間界では現象化しにくいカルマが多くたまってしまった場合、人間の肉体の死を契機として、そのたまっていたカルマが一気に噴出し、そのカルマにあった世界に生まれ変わることになります。
この「老・死」のもう一つ別の解釈としては、この世の無常性を示しているとも解釈できます。「取(とらわれ)」によってこの世でさまざまな行為を行なっても、すべては無常なので、成功してもそれは衰え、最後は滅します。しかしそれはカルマの内在因としてまた「行」にインプットされ、また将来のカルマの果報と、心のベクトルを生み出すわけです。
以上の内容はもう少し複雑な心理的プロセスについても説明可能ですが、話をわかりやすくするために割愛しました。
さて、では具体的にどうすればいいのかということですが、これもできるだけ簡潔に書きますと、
まず「無明」、すなわち物事を実体視する無智が晴らされさえすれば、その人はカルマの法則から解放されます。しかしこれはもちろん実際は、深いサマーディと智慧の修行によって、真の明智(ヴィディヤー)を得なければ無理です。しかし完全には無理でも、常に物事の空性を頭に置くことは大事です。
次に「行」と「識」の動きを止めるというのは難しいので、真理に基づいた行と識の形成に励むしかありません。
具体的にはもちろん、日々、身・口・意の善行に励むことがひとつです。
つまり身体において殺生をなさず、慈愛を持って生き物に接する。
盗みをせず、布施をする。
邪淫をせず、清浄な人間関係を保つ。
言葉においては、うそをつかず、真実を語る。
意味のない言葉を言わず、意味ある言葉を語る。
悪口を言わず、優しい言葉を語る。
人の仲を裂くような言葉を語らず、人を和合させる言葉を語る。
そして心においては、執着をせず、放棄の心を持つ。
怒り・憎しみを持たず、慈愛・慈悲を持つ。
誤った見解を持たず、正しい見解を持つ。
以上のような善行に励みながら、正しい教えを学び、正しく瞑想し、真実の経験を積み重ねることで、「行」は浄化されていきます。
しかし「行」から自然に形成される「識」の浄化を、自然に任せていたのでは時間がかかるので、意識的に「識」を形成します。つまり「行」の中の、まだ少ない真理の情報を意識的に引っ張り出し、真理に基づいた観念的意識を、無理やり形成するのです。
こう言うと難しく感じるかもしれませんが、簡単に言うと、常に真理の教えに基づいて生きるということです。
そしてカルマの果報が返ってきた(触)とき、そこで悪しき「行」と「識」から生じる、偏った苦楽の感受の生起を、許してはなりません。できれば、何があっても心を動かさない訓練が必要です。
しかし実際は苦楽の感受が動いてしまうことの方が多いでしょう。しかし瞬間的にそれらが動いても、次の「愛」までは展開させないことです。つまり苦楽の経験に対して、好悪の感情を持たないということです。
そしてできるなら「変容」を行なえば、修行はより速く進むでしょう。
簡単に言うと、たとえば苦しみの感受を経験したとき、それを嫌悪するのではなくて、「ああ、悪いカルマを落としてくれてありがとう」と、感謝の気持ちを持つ訓練をするのです。こういったことの繰り返しにより、悪しきカルマの連鎖は、ベクトルが徐々に善のカルマの連鎖のほうに変わっていきます。
「変容」に関しては、さまざまなやり方がありますが、割愛します。
もし「変容」ができない場合や、やり方がわからない場合は、少なくとも心を動かさないことです。
動いてしまうとしても、それを「取(とらわれ)」にまで展開させてはなりません。
仮に「取(とらわれ)」にまで展開してしまったとしても、実際にそのような悪しきカルマの連鎖からくる行為に出てはいけません。じっとこらえてください。決して悪業を行なってはなりません。教学をし、懺悔をし、心を静め、何をなすべきで何をなすべきでないかを思索してください。
こういったことを日々考え、自分にあてはめ、自分の五蘊、行為、そして行や識を浄化していくことこそが、仏教やヨーガの修行の大きなポイントになると思います。
そして最終的には深いサマーディに入る準備が整い、サマーディの中で智慧を得、無明を越えることも可能になるでしょう。
以上、個人的経験と見解から、12縁起の法のひとつの解釈を説明させていただきました。皆さんの生き方の何がしかの参考になれば幸いです。
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