許す
誰かが自分に対して、あるいは他人に対してなした悪や不誠実を、許せないと思い、批判や非難をしたいという思いは
自己の心の奥に隠している罪悪感を、その人に背負わせ、その人をいけにえにしようとしているのかもしれない。
私たちは小さなころから、多くの悪をなし、不誠実なことをなし、そして後ろめたいことを積み重ねてきた。
私たちの深い意識は、直感的に何が善で何が悪かを知っているので、どんなに表面的な言い訳を自分自身に対してなしても、深い意識には罪悪感が残っている。
ごまかし続けても消えることはなく、無意識に自分を苦しめ続ける罪悪感がある。そしてそのような自分の中にあるけがれと同様のけがれを誰かの中に見つけたとき、われわれはその人を徹底的に非難し、批判し、攻撃し、排除しようとする。まるで自分の罪をその人にすべて背負わせ、いけにえにし、楽になりたいかのように。
「自分を許せない者は他人を許せない」という言葉の意味も、そこにある。
ここでいう「自分を許す」というのは、「甘やかす」とか「妥協する」という意味ではない。その逆に、自分を甘やかさず、自分と向き合い、悪やけがれをそれとして認め、懺悔し、覚悟をきめ、ケリをつけるということだ。
そのための具体的な技法は、やはり「懺悔」が一番いい。自己の過去を振り返り、あるいは自分の心を見つめ、希望的観測を入れることなく、客観的に自己の罪を認め、神や仏陀や師に懺悔をする。そして二度とそのようなけがれを起こさないという決意を固めるとともに、自己が過去になした悪の果報は甘んじて受けようという覚悟を決める。
私は確かに過去に多くの悪をなしてきた。そして今も心に多くのけがれがある。それは認める。しかし同時に私は、必ず仏陀へと至ることができる種子を持っている。その無限の可能性を認める。その無限の可能性を認めるという意味で、自己を認め、許すのだ。
それができたなら、同様の思いで、他者のことも見ることができる。あの人も自分と同様の汚れを持ち、自分が過去になしたような悪や不誠実を行なっている。しかし彼もまた、完全なる仏陀へ至る種子を有している。だからそれを認め、許そう。彼が自己の悪を懺悔し、心の方向性を変えない限り、彼の悪業や不誠実によって苦しむのは、彼自身である。よって彼は非難・批判されるべき存在ではなく、彼こそは早く仏陀や神によって救われなければならない存在である。
よって彼が早く目覚め、正しい道を歩んでくれることを願う。ただそれだけしかない。
そのような意味でも、すべての他者は鏡である。他者を批判・非難したいという思いが出てきたときこそ、自分の心や過去の汚れを見つめ、懺悔し、覚悟をきめ、決意することで、自分を許そう。それによってその他者をもまた許し、受け入れることができるようになったならば、それは大変偉大な精神的進歩であり、幸福への道であり、自己の心がひとつ広がったことの証となる。
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