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解説・ミラレーパの十万歌 第一回(1)

2008年11月23日

解説・ミラレーパの十万歌 第一回

 はい。今日は『ミラレーパの十万歌』ね。ミラレーパっていうのは『聖者の生涯』にも出てくるので、まあ知ってる人は多いと思いますが、チベットの偉大な昔の聖者ですね。
 で、この人は、そうですね、チベット仏教っていうのはいろんな宗派があるわけですが、その宗派の別に関わらず、すごく人気のある聖者ですね。
 っていうのは、この『ミラレーパの十万歌』に代表されるように、いろんな歌を残してるんだね。で、その歌がとても、なんていうかな――仏教ってもともと非常に仏典とか難しいので、特にチベット仏教っていうのはすごく論理学が発展してるので、例えば空とは何かとか、すごい難しい論理をいっぱいこうこねくりまわす。そういうのはもう民衆にはよく分からない(笑)。何を言ってるんだって感じでよく分からない。で、ミラレーパっていうのはその非常に深遠な真理を、非常に心に響くような歌にしてたくさん残したんだね。
 で、そのまあ歌もそうだし、あとミラレーパのね――『聖者の生涯』とか見れば分かるけど、実際の彼の人生の物語がとても、なんというかな、まあ面白いっていうかな、一般の人にも受けるような――つまり、何とか大聖者の生まれ変わりとして認定されてとかそういうんじゃなくて(笑)――若いころにね、ほんとは大金持ちのお坊ちゃんだったんだけど、財産を奪われてすごい貧乏になって、で、そこからお母さんが復讐のためにミラレーパに魔術を習わせて、で、多くの人を殺すわけですね。復讐のために。で、その復讐――まあつまりミラレーパっていうのはある意味もともとマザコン的な人だった。つまりお母さんのいいなりだったわけだね。お母さんがもう「われわれの財産奪ったあいつら許せん!」――そのあいつらっていうのは親戚なんだけど、親戚に財産奪われたんで、「許せん」って言って、子供のミラレーパに、「あなたが魔術を習って親戚を殺さないと、わたしが死ぬよ」って言うわけだね。で、お母さん思いだったミラレーパは、「お母さんを死なせるわけにはいかない」って言って、魔術を習って、まあもともと素質があったから、魔術によって多くの親戚を殺すわけですね。
 で、そういうことがあったあとにミラレーパは――前生からの良い縁がよみがえってきて、すごく恐怖するようになる。つまり、「わたしはなんて悪いことをしてしまったんだ」と。つまり仕返しで多くの人を殺してしまったと。それに対する罪の意識がものすごくわいてきて、で、なんとかしてこの罪を浄化して、悟りを得たいと思うようになった。そこで縁のあったマルパという師匠のもとに弟子入りするわけだね。
 で、マルパは自分のもとに来たそのミラレーパがもともと非常に素質があり、そして自分ともとても縁があるっていうことは見抜いていた。見抜いていたけど、今生多くの人を殺してしまったっていうその罪がミラレーパにあったから、それを浄化しなきゃいけないっていうのが分かっていた。そこでマルパはミラレーパを徹底的にいじめ抜くわけですね。いろんなかたちで精神的、肉体的にいじめ抜いて、その彼の積んでしまった悪業を浄化しきろうとするんだね。
 それはもう端から見るとものすごい、なんていうかな、まさに虐待みたいなことをやるわけだけど、そのマルパの奥さんっていうのが優しい奥さんで、マルパがやってることを全く理解できずに、ミラレーパを助けようとしたりしてマルパに怒られたりするわけだけど(笑)。そういうのもありつつ、最終的にミラレーパの罪が浄化され、で、マルパに受け入れられて、高度な教えを与えられ、で、ミラレーパはものすごい、ほんとにチベットでも例を見ないぐらいの大聖者の一人になりましたと。
 ――こういう、なんていうかな、伝説じゃなくてほんとにあった人の話として、こういう面白い、苦難を乗り越えて悟ったっていう話があって。しかもそのミラレーパの教え自体も、さっき言ったようにすごくこう心に響くような歌が多いのでね、だからすごく人気があるんだね、ミラレーパっていう人は。
 で、そのミラレーパの代表作っていうか、ミラレーパ自体は何も書いてないんだけど、ミラレーパが歌った歌やあるいはその生涯が、まあチベットで伝えられてきて、それをある人が本としてまとめてね、出したものが、代表的なものが『ミラレーパの生涯』と、それから今日学ぶ『十万歌』っていうのがあります。で、『ミラレーパの生涯』っていう物語は、これはまあミラレーパの今言ったような生涯の話を物語にしてるんですが、この十万歌っていうのは、なんていうかな、まあその続編みたいなもので――ミラレーパはマルパのもとにしばらくいて修行をして、そのあと一人で洞窟で修行しながら弟子たちを導いていくわけですが、そのときの、まあ多くの人を導きながらね、だんだん大聖者に成長していくときの物語だね。その中でミラレーパは多くの歌を歌う。
 で、まあ今日は第一部から始まりますが、この第一部はまだミラレーパにそんなに信者とか弟子が集まってないころ。まだミラレーパがそれほど、なんていうかな、完全な悟りを得ているわけではない。もうすぐまあそういう境地に達するかなぐらいのときに、多くのチベットの悪魔たちと戦ったり、あるいは対話したりするんですね。そのころの物語です。
 もともとチベットっていうのは、悪霊の国と言われていました。悪霊の国っていうのは、つまりまあ実際にね、これは比喩じゃなくて、ほんとに悪霊がたくさんいたと。つまり魔的な霊的存在がたくさんチベットにいて、だから仏教がなかなか入れなかったんだね。つまり仏教っていうのは聖なるものだから、その悪霊たちがそれを邪魔していた。で、一番最初に仏教をチベットに本格的に移入しようとしたときに、あまりにも悪霊がいるためになかなか仏教が根付かないので、その当時インドでものすごい神通力を使う大聖者として知られていたパドマサンバヴァね、パドマサンバヴァっていう大聖者をわざわざインドから呼んだんですね。で、そのパドマサンバヴァが、チベット中の悪霊を退治して、まあ仏教の教えを守る神に変えてね、で、なんとかチベットに教えを入れたっていう話があります。
 でもその後もやっぱり、なんていうかな、チベットが完全に聖なる国にすぐになったわけではないから、チベット中にはいろんなタイプの霊がたくさんいる。まあもちろんそれはチベットに限らないんだけど。日本にだっていろんな霊がいるし、どこに行ってもいるわけだけど、そういった霊とか魔との戦いっていうのが、まあしばらく物語としてあります。で、これは実際の外的なそういった霊的な存在との戦いでもあるんだけど、同時にそれは内側のわれわれの心の魔との戦いでもある。修行者っていうのは絶対にそういった魔との戦いっていうのを何度も何度も繰り広げて、それに打ち勝っていかなきゃいけない。まあなんていうかな、そういう段階ってあるわけだね。それはお釈迦様もそうだし。お釈迦様も完全に悟りを得るまでにいろんな魔がやってきた。あとイエス・キリストとかもそうですね。イエス・キリストも修行してるときに悪魔がやってきて、いろいろ誘惑されたとかいう話がある。だからそういう魔との戦いっていうのは、必ず経験しなきゃいけない。
 はい。まずそのころのミラレーパの物語ですね。

【本文】

ミラレーパの十万歌

パート1 ミラレーパ、悪魔を征服し、改心させる

第一話 「赤い岩の宝石の谷」の物語

 グルに帰依いたします。

 あるとき、偉大なヨーギー・ミラレーパは、宝石の谷の鷲の城に滞在して、マハームドラーの瞑想修行に集中していました。
 空腹感を感じ、何か食物を調理しようとしましたが、よく洞窟の中を見ると、塩や油や小麦粉はおろか、水や燃料さえ何もないということがわかりました。
 彼は言いました。

「わたしはものを無視しすぎたようだ!
 外へ出て、少し薪を集めなければならないな。」

 彼は外へ出ました。しかし彼が手に小枝を集めると、突然、強い風が起こりました。その風は森の木を吹き飛ばし、彼のぼろぼろの服を引き裂くほどに強い風でした。服をつかもうとすると薪が飛ばされ、薪をつかもうとすると服が破り飛ばされました。

 ミラレーパは考えました。
「わたしはこんなにも長い間、ダルマを実践し、リトリートにとどまっているのに、未だ自我執着を取り除いていない! それを征服できないならば、ダルマを実践していったい何になるのだろうか。好きなように風に、薪や服を吹き飛ばさせよう!」

 このように考えて、抵抗をやめました。しかし、食料不足による身体の虚弱により、次の突風に彼はもはや絶えることができず、気絶して倒れました。

 はい。この『ミラレーパの十万歌』っていうのは、まあ、ただの物語ではありません。そして逆に、ただの教えが書かれた経典っていうわけでもない。わたしの印象だとこれは――まあ何回かやったあのロンチェンパの作品とも同じように、なんていうかな、これを読むこと自体がわれわれの瞑想になる。われわれの心を変えてくれる、瞑想の書みたいな感じがあるね。もちろん普通の人が普通に読んだらただの物語なんだけど(笑)、修行者がこれをしっかりとこう、いろいろ考えながら、あるいは自分に当てはめながら読んでいくと、すごくいい瞑想に使える物語っていう感じがするね。
 はい。そして、この第一話もそうだけども、例えば一つの何か言いたいことがあって、それのために全体の物語があるっていう構成ではなくて、一つのこの物語の中にさまざまな示唆が含まれてる。で、それはそれぞれの段階に応じて読み取れたり、あるいは自分の修行が進む度に読み返すと、より深い意味を受け取れたりっていう経典だね、これはね。
 はい。で、まず最初の部分。この部分はとてもいい部分ですね。これはつまりミラレーパがずーっと、つまり無頓着に瞑想をしてたと。で、さすがにまだ、まあ完全なブッダっていうわけじゃないから、ずーっと瞑想してたらお腹が空いてきたと(笑)。ね。「あ、じゃあそろそろ何か食べようか」と思ったら、何もないと。で、この何もないっていうのは、もちろん悪いことではない。つまりそれだけ、なんていうかな、無計画――いい意味でね。つまり一切のものにこだわらない。つまり普通だったらさ、「さあ、おれは洞窟で修行するぜ」と。「さあ、じゃあここら辺に台所作っとくかな」とかね(笑)。あるいは「数日間瞑想するから、食料はじゃあこれだけ蓄えとくか」と。「じゃあ薪も何日間分かいるかな」と。「じゃあこれだけあれば足りるかな」とか、そういうことを計算して、もうわーって整えて、「よし、瞑想するか」と。
 でもね、普通はね、こういった傾向っていうのは、それだけでは終わりません。バシッとそれで終わって、「はい、じゃあ瞑想」――これならまだいいかもしれない。でも普通はさ、そういうことに心を向けだすと、瞑想にならないんだね。例えばそれで三時間ぐらい瞑想しましたと。四時間目ぐらいに、「やっぱり薪あれ、足りるかな?」とかね(笑)。「やっぱりちょっと少なかったかな?」とか(笑)。で、まあ半日くらい瞑想してたら、「あの食料だけで足りるかな?」とかね。うん。どうでもいいことで頭がいっぱいになってしまう。だから放棄がほんとは一番もちろん大事なんだね。まあバクティヨーガ的に言うと、もうすべておまかせすると。
 ある人が、まあ、こういったことに関して師匠に尋ねたことがあって、それは何かっていうと、われわれはね、修行ばっかりやってたら、特に今みたいな時代――昔のお釈迦様の時代っていうのは、修行者が托鉢に出ればみんなが食べ物くれたりとかね、あるいはまあお金持ちの信者とかが、道場とかを布施したりとか、そういう時代があったけども、今の時代はみんなそんなに信仰がないし、あるいはシステムももう貨幣経済のシステムになっちゃってるから、「今の時代は修行者が修行だけやって生きていくのは大変じゃないか?」と。「何かそこら辺は経済的にいろいろ考えた方がいいんじゃないか」っていうふうに師匠に言ったらね、師匠が、「よく考えてみろ」と。「今までに餓え死にした修行者がいるか?」と。「必ずブッダや仏教の守護者や、あるいは聖なる神々たちが、必要なものはわれわれにいつも与えてくれるようになってるんだ」と。「だから心配するな」っていう話があって(笑)。これもまあ、なんていうかな、「ああ、そのとおりだ」って思うか、「いや、それは合理的じゃない」って思うかはまあ自由だけども、そういうような、投げ出したような心構えが必要なんだね。
 だからここでミラレーパが瞑想に集中してて、気付いたら何もなかったっていうのは、もちろん悪いことではない。それだけミラレーパが、もう本当に悟りのことしか考えてなかったっていうことだね。
 はい。で、まあ何もなかったんで、しょうがないので、火さえもおこせないので、まずとりあえず薪を集めに行きましたと。そしたらいきなり突風が吹き、で、ものすごい嵐のように風が吹いて、「あ、薪を飛ばされないようにしよう」と思って薪を大事に抱えようとすると――まあもともとミラレーパはボロを着てるから、そのボロの服がもう破かれそうなぐらいバーッて飛ばされそうになる。「あ、服が飛ばされる」と思って服を守ろうとすると薪が飛ばされそうになると。で、しばらくこうやってミラレーパは困ってたわけだけど、そこでハッと気付くわけだね。ハッと気付いて――まあ、ここに書いてあるようなことを思うわけです。
「わたしはこんなにも長い間、ダルマを実践し、リトリートにとどまっているのに、未だ自我執着を取り除いていない! それを征服できないならば、ダルマを実践していったい何になるだろうか。好きなように風に、薪や服を吹き飛ばさせよう!」と。ね。
 これはとても大事な部分だね。つまり、一体何のために修行してんのかっていう問題なんだね。それはここに端的に書いてあるように、自我執着の克服ね。つまりエゴを克服するために自分はこんなにも長く修行してたはずなのに、今自分の行動を見ると、「ああ、薪が飛ばされたくない」「ああ、服を飛ばされたくない」っていうエゴでいっぱいであると。それに気付いたわけだね。で、そこで、「これじゃ全然修行の甲斐がないじゃないか」って思って、「もう好きなように風が吹くなら吹け」と。「薪でも服でも飛んでいけ」みたいな境地になったわけだね。
 これはだからわれわれもとても、なんていうかな、心に留めなきゃいけない。つまりこれはもちろんミラレーパが、そういうエゴが強い人だったっていうわけではなくて、人間の心、修行者の心っていうのは常にそういうふうに、なんていうかな、忘れるんだね。自分は何のために修行してんのかとか、あるいは何が必要で何が必要でないかとかをすぐ忘れて、すぐに、以前のというか、あまり正しくない考え方、あるいはあまり本質的ではないところに心が奪われてしまう。だから常にこのように自分を観察してね、自分がちょっとポイントを外してないかなということを観察しなきゃいけない。
 はい。そしてここで、そのようにミラレーパが気付いてね、自分のエゴを捨て、「さあ、風に好きなように飛ばさせてやろう!」って思ったら、すごい風が吹いちゃって(笑)、で、もともと食料不足で体ガリガリになりながら修行してたから、その風に耐えることができずに吹っ飛ばされちゃって気絶しましたと(笑)。それがここのところですね。

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