解説・ナーローの生涯(5)
◎グル探しの旅
【本文】
旅の途中、ナーローは、サンヴァラのマントラを七十万回唱えました。すると、空から声が聞こえてきました。
「不二一元の至福を体現した、すべての衆生の主であるティローが、東の方角に住んでいる。
仏陀でありグルであるティローを探せ。」
こうしてティローという師の名が明かされ、ナーローは、東の方角に彼を探しに行きました。
ナーローが狭い道を歩いていると、グロテスクな姿をした病気の女が、道をふさいでいました。ナーローは彼女に同情を寄せつつも、鼻をつまんで、女の上を跳び越しました。すると女は、虹の光を放って空中に舞い上がり、こう言いました。
『究極の実在の中では一切が同一になり、
それは習慣を生み出す思考や限界から解放されている。
そうした思考や限界にまだ束縛されているのなら
どうして、グルを見つけることができようか。』
そうして女は消え、ナーローは気絶して倒れました。
意識を取り戻したナーローは、あの病気の女がグル・ティローの化身だと気付き、
「これからは、誰が現われても、教えを乞うぞ」
と思いました。しかしこの後もナーローは、何度もティローの化身と会うのですが、それと気付かず、ことごとく失敗を重ねるのでした。
はい、ここからナーローの師匠、ティロー探しが始まるわけですが、これは後でも明かされるわけだけど、ナーローはもう本当に苦労してね、いろんな試練を乗り越えてやっと会うんだけども、でも実際は本当のことをいうと、最初からティローはずっとナーローのそばにいたんだね。そばにいたけどナーローはそれを認識できなかったと。 つまり本当にティローっていう人ていうのは――ナーローはさっきも言ったようにちょっと桁外れの存在なんだけど、その師匠だから、ティローって(笑)。もうちょっとね、本当にね、ティローもまた――まあティローの話って伝説しか残ってないんだけど、人間だったんだろうかっていうぐらいの(笑)、ちょっと桁外れの人なんだね、ティローっていう人もね。だから、ちょっと桁外れの、しかも完全に成就してる状態だから、われわれの認識を超えた状態で現われるんだね。
で、これも前にやったアサンガとマイトレーヤの話とちょっと似てるわけだけど、アサンガもマイトレーヤ、弥勒菩薩をこう瞑想してて、で、ずーっと本当は側にいたんだけどけがれてたから気付かなかったと。それと非常に似た話だね。ずーっとティローはナーローの側にいたんだけど――つまりナーローの方が認識のけがれがあったがために、ストレートな形でティローとまみえることができなかったんだね。で、それがいろんなちょっといびつな形でティローと巡り会い、で、そのたびにナーローは失敗すると。でも、それが逆にいうとナーローの訓練だったんだね。
つまり、もう一回言うけどね、ナーローっていうのはこの時点で――はっきり言うとさ、われわれはもちろんこの時点のナーローにも敵わないよ(笑)。ね。「いや、ナーローはまだ大学とか行って言葉面だけ勉強いっぱいして、本当にまだまだだな」なんてわれわれが思っても、全然われわれより上ですからね(笑)。もうすでにこの時点で、ティローの弟子になる前に、相当なもちろん学問と、相当な瞑想のステージ、それから智慧も高いと。で、神通力もあると。で、そのナーローですらまだ多くのけがれがあったんだね。で、そのけがれによっていろんな失敗をする。
で、これはいつも言うように、一般論として言うならば、すべては――よく日本でもいわれるのが、これもわたしが昔好きだった宮本武蔵の言葉でもあるんだけど(笑)、宮本武蔵だったか作家の吉川英二だったか忘れたけど――「われ以外、みなわが師」っていう言葉があるんだね。つまりわたし以外、つまり他人っていうのは全員わたしの師であると。
で、これには二つの意味があって、一つは一般的な意味でね、みんなから何らかのことは学べるんだと。どんなひどい人からでも学べるし、まあもちろん反面教師っていう学び方もあるし、すべての人がわたしの師匠となり得ると。もちろん人間だけじゃなくて自然とか動物もそうだけどね。あらゆるものは自分の師なんだっていう、こちら側の考え方の問題ね。これは一般的な意味だと思う。
もう一つ、もっと深い意味でいうと、「本当にみんなわが師」って考えがある(笑)。つまりそういう「考え方」ではなくて、つまりその師というのは、師匠というのは、つまりクリシュナとかと同じで、もし師匠が完全な解脱を果たしているとしたら、それは密教ではよくダルマカーヤとかいうわけですが、ダルマカーヤっていうのはつまり、すべてに偏在してるわけですね。クリシュナみたいに。よって、みんなわが師なんだね。で、そのみんなわが師である存在が、自分がもしその師匠と完全に師弟関係があるとしたら、師匠っていうのは当然弟子の修行を進める方向で動き出すから、いろんな現われとして師匠が現われて、自分の修行を進めてくれるんだね。これがマハームドラーの一つの修行の特徴というかな。
しかし、これからいくつか続く物語見ると分かるけども、みんなもそうだろうけども、大体分かんなくなるんです。分かんなくなるっていうのは、分かりやすくないんだね、だからね。分かりやすいんだったらいいですよ。あるいは予告するんだったら分かりやすいよね。例えば師匠が、例えば「明日五時ごろ、おれの現われが現われるから頑張れよ」と。「ちょっと観念崩されるかもしれないけど頑張れよ」と。そしたらちょっと身構えて「え? これか!」と。「うわっ! でも師匠だから頑張るぞ!」ってなるんだけど、そんな簡単な問題じゃない。
逆にいうと、忘れたころにやってくる。例えばこの物語でもそうなんだけど、一個試練で失敗してナーローが「ああ、失敗した」と。「よし、次からはすべてを師と見るぞ」と。ね。で、この物語見ると分かるんだけど、大体パターンがチェンジするんだね。つまりある種の何か試練がやってきて失敗しちゃって、「ああ、わたしはあまりにも自分の煩悩によって、これを自分の師と見れなかった」と。「でも、次は絶対見るぞ」と。ガチガチにこっちで固まってるんです。すると全然違う方向から今度はやってくる。だからこっちで頭が固まってるから、全く不意なところからやってくるから、今度はそれもまた師と見るっていうのができなくなるんだね。
たとえば日常的な例で挙げると、例えば誰かにすごく傷つけられたりひどいことを言われたりして、で、すごい傷ついたと。あるいは言い返してしまったと。そこでハッとして、「いや、すべての現象はわが師の現われである」と。「そう見えなかった」と。「わたしは相手を実体視してしまって、すごく相手を責めてしまった」と。「こんなんじゃいけない」と。「次にそういうことがあったら絶対わたしは師と見るぞ」って思うわけだね。で、もちろん次そういうことがあるかもしれない。そしたらそれはもちろん「師の現われだ」って見て、頑張ってそれを抜ければいいんだけど、でもそうじゃなくて、そういうふうに思ってるときに全然違うことがやってくるんだね。全然違うことっていうのは本当に、全くジャンルから違うっていうか。つまり誰かが自分を傷つけるじゃなくて、逆に自分を誘惑してくるかもしれない。あるいは第三者的な存在として現われるかもしれない。全く自分の予期せぬ形でやってくる。で、それでまた心を乱される。で、自分はこっちに目が向いてるから、「ちょっと何やってんの? わたしは今これを待ってるんだ」(笑)、で、こっちで乱されて「もういい加減にしろ」と。で、こっちが師だったりするわけだね。こういう感じでこう振り回されるっていうかな、これがマハームドラー的な師弟関係の特徴なんだね。で、まさにナーローはこれにはまっていくわけだね。