yoga school kailas

解説・アーナンダマイー・マーの教え(9)「精神的進歩の努力を」

◎精神的進歩の努力を

【本文】
九.あなたが、自分は精神的に進歩をしていないと感じるとき、その原因は常にあなただけにあると考え、精神的進歩へのあなたの意志をより一層強化するように努めてください。
 そしてより純粋な、またはより高い自我意識を持って、彼を崇拝してください。
 すなわち、
「私は彼を愛する。」
「私は神のしもべである。」
 ――これらの自我意識は、あなたと神をつなぐために、強く持つべき「良い自我意識」です。

 まず前半の部分、これはとても素晴らしいですね。何が素晴らしいかというと、これはバクティ・ヨーガの失敗のパターンってあります。これはつまり、バクティ・ヨーガっていうのは「おまかせ」とか言ってるから、ちょっと怠惰になりがちなんだね(笑)。何回か言ってるけど、ミラレーパが最初ゾクチェンの師匠についたときもそれで失敗した。「ああ、ゾクチェンは完璧だから何もしなくていいんだ」って言って寝てたら(笑)、師匠に怒られたって話があるけど(笑)。

 「おまかせ」っていうのは、例えば「おまかせ」してるからずっと寝てればいいってもんじゃない。あるいは、自分の中にけがれがあるけど「おまかせ。いつかなんとかなるだろう」じゃない。「おまかせ」っていうことはつまり、あらゆる神の試練、あるいは自分で何かを全力で打ち破ろうとするときに、全力をまず尽くす。で、全力を尽くした上でやってくること、これはもちろんおまかせしなきゃいけない。しかしその全力の努力っていうのは、放棄しちゃいけないんだね。

 で、それがここに書かれていることで、例えば自分が進歩していないって考えたときに、まず、これはちゃんと認めなきゃいけないんです。進歩してないとか、あるいはけがれがあるっていうことを隠してね、「でもすべて完璧ですから」――もちろんすべては完璧なんだけど、それはそのけがれが神の力によってぐーっとしっかりと現われて、それを自分で消そうとしなきゃいけない。しかし、タマスっていうかな、自分を覆い隠したい人は、それをぐーっと一生懸命隠しながら、「いや、完璧ですから」と言っている。こうすると罠にはまります。そうじゃなくて、自分のけがれはけがれとして認めなきゃいけない。

 じゃあそれは誰のせいですか? 神のせいですか? それとも他の誰かのせいですか?――いえ、わたしのせいです、と。つまり、わたしに努力が足りないだけですと。誰のせいでもない。ただわたしの意志が弱いと。まだまだ努力が足りないんですと。

 ちょっと話がずれるけど、みなさんにとって利益のある教えを一つ言うとね、決してみなさんは、言い訳をしない方がいい。できるだけね。それから、これもできるだけ――つまりケースバイケースだけども、責任を誰かに押し付けないほうがいい。そういう生き方をしていると、成長します。

 逆に、言い訳をする、あるいは責任を誰かに押し付ける。これをやっていると、その場は逃げられるけども、成長はない。

 自分で自分の限界を作ってるだけなんだね、言い訳っていうのは。例えば、「こうだったからできませんでした」――って言った瞬間、その人は永遠に、こうだったらできなくなります(笑)。ね。

 つまりそれは、条件に文句言っちゃいけないんだね。「こうだったけど、もっと頑張ればできてたはずです。努力が足りませんでした。次はもっと頑張ります」――これならオッケー。「こうだったからできなかったんです」――こう言った瞬間にその人は、こうだったときは全然できなくなる。ね。

 つまり、条件はただの条件であって、それは努力が足りなかったんだと。あるいは、人のせいでもないと。例えば、「この人がこういうこと言ったからできなかったんです」――じゃない。それは努力が足りなかったんだと。例えば、「頑張ろうと思ってたら、誰々さんが否定的なこと言ってきたんで、ちょっと……」――小学生とかそういうよく分からない言い訳するけどね(笑)。「誰君がこういうこと言ったんで、ぼくやろうと思ったんですけど、できなかったんです」とか言うけど(笑)、それははっきり言ってその場限りの言い訳であって、結局は自分なんです。結局は自分が本気でやろうとしていなかった。あるいは努力が足りなかったんだっていうふうに思った方がいい。で、それによって反省して、「さあ、次はより一層の努力をするぞ」というのはちゃんと持たなきゃいけないですね。

◎良い自我意識を

 はい、そして、より純粋な――まあこれはさっき言った部分ね。より純粋で、高い自我意識を持たなきゃいけない。つまり、特にバクティ・ヨーガってそうなんだけど、「無」になるとか「空」になる世界じゃないんだね。「神の僕」になるんです。あるいは「神を愛する者」にならなきゃいけない。

 これはね、菩薩行も同じです。菩薩行も「空だ」とかばっかり言ってちゃいけないんだよ。「菩薩」になるんです。「空だ」とばかり言ってちゃ菩薩になれないでしょ? 「救ってください……」「一切は空である」とか言って(笑)、何も始まらない(笑)。

 つまり「わたしは菩薩である」と。「菩薩であるからこそ、わたしには人を救う使命がある」と。これははっきり言って自我意識でしょ? 「おれは菩薩だ」と。「おれは人を救うのだ」という自我意識。でも、これは必要なんです。あるいは、「わたしは神の僕である」という自我意識ね。で、最終的にはもちろん、われわれの悟るときっていうのはそれすらも消えるんだけど。

 リアルな話をするとね、さっきの、空って言ってる人の頭を叩いたら絶対痛がるっていう話と同じで、われわれは「菩薩である」とか、「神の僕である」っていうような自我意識もないんだけど、そうじゃない自我意識はすごくいっぱいあるんです、もうすでに。つまり例えば、ちょっと知ったかぶりの人が来てね、「いや、あなた、修行者であるっていう意識を持っちゃいけませんよ」とか、「菩薩であるとさえ思ってはいけません」とか言う人がいるかもしれない。そんなの聞いちゃいけません。だってもともと、例えば「おれはNだ」とかね、「おれはゲームうまい」とかね(笑)、「おれはコメディアンだ」とか(笑)、いろんな自我意識があるわけですよ。「おれはこうだ」とかね。で、すでにあるんです、もう。すでに空じゃないんです。すでに空じゃないのに、より素晴らしい「菩薩だ」っていう自我意識を否定してしまったら、残るのはたとえば「ゲーマーN」しか残らない(笑)。例えばね(笑)。これは例えばの話だよ(笑)。それしか残らないんです。

 まあ、もっと分かりやすくいうと、たとえばプライドに満ちた人が例えばいたとしてね、そのプライド満々の自我意識、これがすでにある。これは相当修行しないと落ちないのに、より素晴らしい自我意識を放棄してたら、残るのはどうしようもないプライドの自我意識しか残らない。

 だから、まずわれわれがやるべきことは、自我意識をなくすことじゃなくて、より高い自我意識を作ることなんです。つまりそれが「神の僕」だとか、あるいは「わたしは神を愛するのだ」とか、あるいは仏教的に言うと「わたしは菩薩である」、このような自我意識ね。これを積極的に徹底的に作らなきゃいけない。そうしないと実質的なプラスにはなりません。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする