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解説『ナーローの生涯』第二回(7)

◎あらゆる現象が神の祝福

 はい、他に何か質問ありますか? 

(M)自分に起きることは、心の働きでありカルマであり、常に神の祝福であるっていうことだと思うんですけども、例えば今日ニュースで外国で大地震があって、多くの人が亡くなったりして、非常にそのニュースを見ることで苦しみとかを感じるんですけども、それもやっぱり自分のカルマであり、心の働きであり、それも神の祝福と考えてよろしいんでしょうか?

 そうですね、それも含めてもちろん神の祝福であって――あるいはね、ちょっとまた話がずれるけど、今日観た『ハヌマーン』のアニメーションとかもそうだけども――あのさ、『ハヌマーン』の中でも、あんまり説明がなかったらよく分からないところがあったかもしれないけど(笑)、いつも出てくる変な男がいたよね。「ナーラーヤナ、ナーラーヤナ」とか言って、変な楽器をこう持って「ナーラーヤナ、ナーラーヤナ」ていう人がいたけども、あの人は、ナーラダっていう大聖者だね。で、あの人はインド神話のいろんなところに出てくるんですね。『マハーバーラタ』にも出てくるし、いろんなところに出てくる大聖者なんですね。で、今日のあの話でナーラダは、ちょっと変なことやってましたよね。変なことっていうのは、ちょっとあれ字幕が小さくて読みにくかったかもしれないけど、例えば、天のインドラのね、座が揺れていたと。で、それは人間のね、苦行者のその苦行の力によって揺れていたと。で、もちろんこの苦行者っていうのは別に、そのインドラの座を狙ってはいないんです。全然、インドラの座なんて興味ないんだね。興味ないんだけども、ナーラダがわざわざインドラのところに行って、「あの苦行者が狙ってますよ」とかそそのかしてる。ある意味でね、インドラを。だから、何とかした方がいいですよと。で、あなたのその天界の女神をおろしてね、あの苦行者をそそのかして苦行やめさせた方がいいっていうことを言ってそそのかすんだね。で、それによってその女神が行って、聖者に余計なことをやって、で、聖者の呪いをかけられるわけだね。猿になれと。で、その女神の生まれ変わりの猿がハヌマーンを産むっていう役割を演じるわけだけど。
 つまりこれは、あの物語の中でも、「すべてはこれも神の計画であった」っていうふうに言われているわけだけど――つまり、神の計画だったんだね、それはね。で、その神の計画をこのナーラダっていう聖者は、うまく遂行するために、そういうようないろんな仕掛けをするんだね。
 で、このナーラダは、例えば『クリシュナ物語』でも出てきて、カンサ王をそそのかすのもナーラダだよね、確かね。『クリシュナ物語』でもね、覚えている人はいると思いますが――改心っていうか、クリシュナが、大魔王の生まれ変わりの悪しき王であるカンサ王を倒すために、地球に赤ちゃんとして生まれてくるわけだけども、それをわざわざ告げ口に行くんだね。この聖者がね。つまり、聖者っていうのは魔を倒さなきゃいけない役割のはずなのに、逆にそのカンサに告げ口に行って、「あなたを殺そうとしているクリシュナがあそこに生まれましたよ」みたいに言ったりするんだね。あるいは、ちょっと心が改心しそうになっていたカンサの心を、逆にまた燃え立たせて、怒りをこう燃え上がらせて、クリシュナを憎むように仕向けたりする。でも、それが神の計画だったんだね。で、そのようにしてカンサが暴虐な王となって世界をめちゃくちゃにして、それをクリシュナが倒して衆生に幸福を与え、っていう、神のリーラーっていうかな。計画があったわけですね。で、そのカンサ自体も――これもいつも言っているけども、大いなる神の計画の一端を担わさせていただいていたに過ぎない。で、それをスムーズに進めるために、例えばナーラダみたいな聖者が登場するんだね。
 ちょっと今の話は話が大きくなっちゃったけども、もう一回話を戻すと、例えばわれわれが何か――今度は一個人の話に戻しますが、誰かがね、今言った、例えば世界のいろいろな災害を見ると。で、そこでいろいろな苦しんでいる人たちを見ると。これは当然、全く同じです。つまり、自分の心の現われであると同時に、神の祝福であると。で、ここで神の祝福っていった場合は当然、その深い意味も個々のパターンで考えなきゃいけないわけだけども。
 そうですね、例えば単純に、客観的に、その現象がどうこうっていう発想っていうよりは、われわれは例えばそこで何を考えなきゃいけないのか――あの、ちょっと、この種の話っていうのは表面的な話をしてもしょうがないので、ちょっとこう突っ込んだっていうかな、みなさんに利益のあるような話をしますが――だからこそ実は、こういう現象を自分の学びに役立てるためにも、強い慈悲が必要なんです。
 っていうのはね、「すべては学びだ」と言いますが、本当の意味でわれわれが現象の一つ一つを学びにするためにはですよ、それは、強烈な方がいいんです。しかも、自分にとってですよ、自分にとって強烈な方がいいんです。自分にとって強烈っていうのは、つまり、自分がズタズタにされるとか、自分の心がズタズタにされるように超罵倒されるとか。あるいは肉体的にすごい苦しみを味わうとか。あるいは、自分のプライドを、もう完膚なきまで叩きのめされるとか。あるいは、人に対してすごく尽くしてあげたって思ったのに、ものすごく裏切られるとか。強烈な経験が必要なんだね。もちろんそれだけじゃ駄目だよ。それだけじゃただ苦しい人生で終わっちゃうんだけど、教えがあって、強烈なそのような経験があると、当然われわれの心っていうのは――もう一回言うけども、ベースとして教えがあって、で、その自分が修行を達成したいとか、悟りたいという決意があった場合ですよ、その場合、当然そこから立ち上がろうとするよね。立ち上がろうとするときに、多くの学びを得ます。多くの収穫を得ます。つまり、その苦しみが多ければ多いほど、っていうかそのショックが強ければ強いほど――われわれに求道心があれば、そこからより多くの学び、気づきがあるんだね。
 でもそれは、ちょっと話を戻すと、じゃあそういう強烈な現象じゃないと駄目なのかっていう問題がある。実はそうじゃないんです。そうじゃなくて、あらゆる現象はわれわれに学びを与えてくれようとしてるんです。ただ、われわれの心が甘いので、普段はすごくなあなあな、甘い感じで生きているから、真剣に現象を捉えられないだけなんだね。だから、すごいショックとか苦しいときばっかりわれわれは真剣になるんだね。じゃないときにも神の祝福とかいっぱい来てるんだけど、なかなかそれをこう捉えられないんだね。
 で、それは、今言ったこともそうなんです。今言ったことっていうのは、例えば、どこかで大災害が起きて多くの人が死んだとするよ。でもね、ちょとこれは極論だけど、極論すれば、でも他人事でしょ。われわれの意識っていうのは、やっぱり他人事って思ってしまう。やっぱり相対的な問題だけども、じゃあ例えば家族がそうなったのと比べたら、当然心の入り方は違うよね。あるいは、もちろん自分がそうなったのと比べたら、その心配度っていうのはやっぱり違ってくる。っていうことは、ここでさっきの話が出てくる。いや、だから強い慈悲が必要なんです、と。つまり、われわれの強い慈悲があれば、そのような見聞きした他人の出来事さえも、すごいショックになるわけです。まるで自分がそうなったかのような、世界が終ってしまうかのような、あるいは自分の愛する家族や恋人がそんな目に遭ったかのような、もう何も手をつけられなくなるようなショックをそこで感じるんです。で、そこから強い学びを得られるようになるんだね。そういう意味では、あらゆる現象が神の祝福であるといえる。
 だからこういう話っていうのは、もう一回言うけども、なかなか難しい。で、難しいっていうのは、もう一回言うけども、柔軟な心がないと難しい。で、こういったタイプの話をしっかり理解するためには、わたしがお勧めするのは、やっぱりバクティ・ヨーガの理解がとても必要で、教えの中では――例えばだけども『クリシュナ物語』。あるいは『マハーバーラタ』。そういうのがとてもいいね。『マハーバーラタ』は最近、わたしとKさんのイラスト入りの改訂版がでたので、ぜひ、これは宣伝しているわけじゃないけども(笑)、『マハーバーラタ』をしっかり読んでね、言わんとしていることを理解するとか、あと『クリシュナ物語』の勉強会を学ぶとか――まあ『バガヴァッド・ギーター』でもいいんだけど、単純な善悪の教えとか、単純なカルマ的な教えとかではない、もうちょっと壮大な、その裏側に流れているエッセンスみたいなのがあるんだね。例えば『クリシュナ物語』とか『マハーバーラタ』っていうのは、逆に表面だけを見ると、ただの面白おかしい物語に見えるんだけど、そういう、より高度なテーマを扱っている話なんですね。ああいうのっていうのはね。まあ、そういうのが一番いいわけですけども。
 はい、ちょっとエッセンス的な言い方でしたけども、分かりましたか(笑)?

(M)はい。ありがとうございます!

 大丈夫ですか(笑)? もっと何かあったらいいですよ。

 ちょっと今日は難しかったですかね(笑)。ただ、まあ相当今日の話は大事な話っていうかな、重要な――みなさんが本当に、表面的な教えとか表面的な修行ではなくて、本質的な気づきとかね、悟りを得るための重要な話がいろいろね、あったと思います。

 はい、では終わりにしましょう。

(一同)ありがとうございました。

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