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解説『ナーローの生涯』第二回(6)

◎すべての生類はわが両親

 ちょっとだいぶね、また難しくなってきてるけども、話をナーローに戻しますが――ナーローの場合も、もう一回言いますよ、「虫がうようよとわいて悪臭を放つメス犬」、これと出会ったこと自体が、まずナーローの心のけがれです。しかもそれを、それが汚いと、嫌だと、うわーっと思ったこと自体も、当然ナーローのまだ残っていたけがれなんですね。当然それは分類するならば、嫌悪、怒りとか嫌悪系のけがれの現われであったといえる。で、そこで、実はそのメス犬自体が、もちろんナーローの心の現われであると同時に、グルの化身であった。
 これはだから、ナーローの場合はもう本当に偉大な聖者で、かつ偉大な師匠との縁も深いので、非常に分かりやすいんだね。われわれの場合はなかなかそうはいかないでしょ? 例えば、われわれの心のけがれとして何か現象が起きて、その現象がパーって神の姿をして、「お前は分からなかったのか」っていうそういう状況ってなかなかないけども(笑)。ナーローの場合はそういうことがあるわけですね。バーッてそのメス犬が光を放って現われて、教えを説いてくれるわけですね。
 で、この教えの内容が――ここはまだ最初の方なのでまだ分かりやすい。つまり、
「すべての生類は本来わが両親である」
と。
 いつも言うようにね、われわれが多くの輪廻を繰り返してるので、すべての衆生っていうのはわたしの父と母だったことが必ずあるんだと。
「大乗の道において 慈悲の心を開発することなくして どうしてグルを見つけることができようか」
と。
 つまり、お前は偉大な師匠をみつけようと思ってるけども、逆に自分が哀れまなきゃいけない存在を見下して、汚いものだと見下して、そんな程度の心しかないと。そのような状態で、つまりカルマの法則からいって、自分が哀れなものを受け入れていないのに――逆にグルからみたらね、自分は哀れなものなわけだけども、そんな状態でグルに受け入れてもらえるはずがないだろう、というようなことを言って、消えていくわけですね。この辺はまだ分かりやすい領域ですね。

 はい、ここまでで何か質問その他ありますか?

◎秘密のキー

(I)すみません、そのけがれに気づいた場合は、特別、その適用する修行っていうのは違ってくると思うんですけど、全体を通していうと、とりあえず慈悲の心を育てることが、そのけがれをなくしてくことに役立つっていうことなんですか?

 そうそうそうそう。だからそれはね、今言ったことっていうのはとてもいいことで、それはね、今Iさんが言ったことは、素晴らしいポイントに気づいたって感じだね(笑)。
 でも、そうなんです。つまり、まさに今Iさんが言ったように、細かい項目ごとのテクニックはいろいろあるわけだけども、でもエッセンスを一つ言うならば、まさに慈悲なんです。慈悲。
 慈悲って言葉自体が多くの意味を含んでいるわけだけど、まず最低限、つまり自分と他人を平等に見て、壁をなくし、他者を受け入れていくと。受け入れて、自分と同じように他の苦しみを哀れみ、他の幸福を願う。
 これはだから、これだけいうと、「ああ、いいですね。道徳的でいい感じですね」って思うかもしれないけど、そうじゃないんだね。ここに大きなキーがあるんです。
 これはね、いつもここの勉強会ではそういう話ばっかりしているわけだけど、実は修行の道とか教えには、いくつかキーがあります。ゲームみたいな感じだけどね。普通に、タラッタラーって(笑)、こういろんなことを乗り越えて、普通にいろんなモンスターを倒したり、いろいろなアイテムを獲得したりしてるんだけども、その中でも――つまり知らされていないんだけども、「実はこのアイテムは普通とは違うよ。それこそがキーになるもんだよ」っていうものが実はあるんだね。でもわれわれは、それを知らされてないから、他のアイテムと同じようにそれを取って、粗末に扱ったりしてるんだね。でも普通に取ったアイテムの中にいくつか、すごいキーがあるんです。だから、みなさんにとってこの勉強会っていうのはゲームの攻略本みたいなものです(笑)。つまり、実はこのアイテムこそが(笑)、重要なんです。
 で、それは、今言った慈悲っていうのは、一つの大きなアイテムです。で、実はそれだけではない。より重要なアイテムっていうのは、みなさんがより修行が進んだときにだんだん明かされていきます。
 ちょうどね、この慈悲が非常に重要なアイテムだ、キーだっていうことは、わたしも何回か勉強会とかでは言ってるわけですけども――だから、それは普遍的なものなんだけど――で、普遍的でないキーっていうのもあって、それはね、まさに今のIさんとの会話みたいな感じで明かされるんです。
 どういうことかっていうと、ある段階にきたときに、「あれ?」って感じで気づくんだね。「もしかしてこれですか?」と(笑)。で、例えばわたしが師匠だったら、わたしが、「いや、まさにそうです」と。「よく気づきましたね」という感じになるんだね。それまでは不可能なんです。そこに気づくのが。気づくっていうか、それを仮にわたしが「これだよ」って言ったとしてもチンプンカンプンなんです。「えっ、なんで?」ってなるんだね。
 例えば、これは現実じゃなくて本当の例として言いますよ。例えばわたしがHさんとかに、「最高のキーを教えましょう」と。「ガス抜きのアーサナです」って言ったらどうする(笑)? 「ガス抜きのアーサナこそが悟りへの最大のキーだ」って言ったとするよ。そうすると、まあHさんじゃなくても誰がこれを聞いても、わけ分からないです(笑)。「先生、おかしくなったかな? あのガス抜きのアーサナって、先生いつも言っているのは、ガス抜きのアーサナをすると便秘が治りますよ、と。あの便秘を治す体操が、なぜ悟りへのキーなんだと。ああ、分からない!」と(笑)。全く意味不明になるんだね。
 でも、今のは例だけども、それくらい意味不明なんです。意味不明のキーがあるんだね。でもそれは、いろんなことを乗り越えて、ある高い段階に来ると、自分でなんとなく気づきだす。で、その段階に来て初めて、それは明かされるんだね。「はい、そうですよ」と。「それなんですよ」と。
 その前に仮にね、その前に例えばわたしが――例えばですよ、ある種のその話をしたとしても、それは、恐らくみなさんにとっては――今のガス抜きのアーサナっていうのは冗談だけども――多分ね、非常に観念的な、概論的なものしか映らない。
 そうだな、例えばですよ、これもちょっと例に過ぎないんだけど――今のガス抜きのアーサナってあまりにもひどい例だったので(笑)、もう一回言い直すけど(笑)、例えば例を挙げるよ。例えばわたしがね、「いや、Tさん、すべての現象は原因と条件でできてるんですよ。これがキーですよ」って言ったとするよ。そうすると、これはちょっとさっきのガス抜きとは違って、なんとなく格好いいことに聞こえる。「原因と条件でできている。それに気づくことがキーなのか」と。で、そう言われても全くよく分かっていないにもかかわらず、そこで観念的にそれを捉え、「原因と条件でできている。それがキーなのである」ってちょっとこう新たな、自分の中の余計な世界を作ってしまうんだね。それによって、本当にそこに気づくのが遅れてしまう場合がある。
 じゃなくて、まあ今のは例だけども、いろんなその――TさんだったらTさんが、神から与えられた試練を乗り越えていくうちに、自分で何となくまず気づき出さなきゃいけないんだね。今の例だったらね、「すべては、ああ、原因と条件の連続に過ぎないんだ」ってこう気づき始めたときに、それがキーだよって教わることによって、パッとこう目覚めるんだね。それはまあ、いろいろあるわけだけど。
 もう一回話をちょっと戻すと、普遍的な一つのキーとしては、慈悲を育てること、衆生への慈悲を育てることが、そういったものを乗り越えていく一つの大きなキーになるね。だから、みなさんも頑張って慈悲を育ててくださいね。

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