解説「菩薩の生き方」第十回(10)
(T)人に対して「死ねばいいのに」と思って口に出した次の日に、その人が自殺してしまったことがありまして。身口意そろってないから自分は関係ないんだって思ってごまかしてたところがあるんですけれども、今日の話で、一瞬でも心が思ってしまったら同じ罪になるという話で、やはりこれは殺生のカルマになって、自分でどういうふうに気持ちを整理していいか、ちょっとアドバイスをいただきたいんですけれども。
これは懺悔の原則でもあるわけだけど、まず第一段階として――「死ねばいいのに」と思った。で、次の日に本当に死んでしまった。で、これはさっきの魔術師の女の子の話みたいに、本当に自分の心が現象化したんだろうか。本当に現象化したとしたらそれは大変なことだよね。ほんとに自分が相手を殺したのと全く同じことになる。でも、そうじゃないかもしれない。でもここは、それがどっちなのかっていうのは追及はしない。しかし自分としては当然、最悪のことを思った方がいいです。つまり、そうなんだと。――っていうのはさ、さっきも言ったように、思っただけでも、それが心がこもってたら殺したのと同じなわけだから、それくらいの大いなる反省をまずすべきなんだね。自分が思ったことによって、その相手を殺してしまったのかもしれない。これはわたしは大変な悪業を積んだと。
で、今日はあまり懺悔の話までいかなかったけども、懺悔っていうのはまず第一段階で、やっぱりね、しっかりと、当然、悪い意味じゃなくて、悔いなきゃいけないですよ。当たり前だけど。ほんとにわたしは悪いことをしたんだ――あのさ、仏典とか見るとね、この悔いるっていうことが強調されてる。で、ラーマクリシュナの教えとかバクティの教えを見ると、「自分を罪びとだってあんまり言うな」って言ってる。で、これさ、ちゃんと皆さんの中で消化しないといけないんですよ。どういうことかっていうと、悔いなきゃいけないんです。しかしその悔いるっていう意味が、なんていうかな、完全に全力で自分を作り変えるための原動力となるための、前進的な悔いなんだね。
だから悔いて、おれは駄目だ、おれは駄目だ、ってなるんじゃなくて――これ、前にも同じような話したけどさ、結局われわれにとって一番大事なのは、熱意なんです。熱意ね。さあ、やるぞと。さあ、わたしは悟るぞと。さあ、わたしは神の道具となろうと。あるいは自分を完全におまかせできるようになろうと。ここに至るための原動力が必要で。で、この懺悔の重要性っていうのは、懺悔によってちゃんと自分の罪と向き合って、で、その罪の大きさをしっかりと悔いて、で、そこで落ち込むのではなくて――まあ、これはTさんだけじゃないですよ。つまり、いろんな人が、多くの悪業を積んでいます。まさにさっき言った、心においても積むっていうのを入れちゃったら、もう悲惨ですよね(笑)。
この中で例えば――表面的なことはさ、例えばN君とかは、N君若いので、いやあ、酒もたばこもドラッグもやったことがないと。で、そうするとみんな「えーっ!」ってなって(笑)。でもそれって、酒とかたばことかドラッグっていうのは、そんな大した話ではない。あるいはその他の行動における悪業も、日本人の場合はそんなにたいそうなことをやってる人はあんまりいないだろうと。でも心においても罪になるって言われてしまったら、相当皆さんは大変な悪業を今まで積んできたと。
で、これは、もう一回言うよ――まず第一段階として、向き合って、受け入れなきゃいけない。つまり、おれはもう地獄に落ちて当たり前ぐらいのことをやっちゃったと。これもう受け入れる。もうごまかさない。やっちゃったんだと。で、やっちゃったからにはもう全力で――つまりね、この懺悔からジャンプアップする教えっていうのは、非常に現実的な教えなんです。現実的。つまり例えば会社の社長がいてね、なんか事業失敗しちゃって一気に借金できちゃったと。これ現実でしょ。例えば一か八かの投資に失敗して六億ぐらい借金できちゃった――現実でしょ。で、これは受け入れなきゃいけないでしょ(笑)。受け入れて、だったら六億の借金を逆に返し、倍増するぐらいの――これは商売の場合ね――今まで以上に全力で力を入れて、あるいはいろんな無駄をカットして、もう今まで以上にこの会社経営に全力を注ぐぞっていう気持ちになるよね。で、その気持ちっていうのはあいまいなものじゃなくて、現実的にそれをなんとかしなきゃいけないっていう熱意っていうか、なんていうかな、当たり前の気持ちになるわけだね。で、これと同じような感覚。つまり、あいまいな形じゃなくて、現実的にわたしは悪業を積んでしまったんだと。で、これは、つまり会社社長がさ、「六億借金できちゃった――トンズラ!」とか言って(笑)、「もういいや」って――まあ、そういう人もいるかもしれないけど、でもそうなるともう、それに関わる従業員とか家族とかはもうみんな路頭に迷わなきゃいけなくなっちゃうし、それはできないよね。それと同じで――まあ、会社社長はそういう感じで逃げられる場合もあるかもしれないけど、自分のカルマからは逃げられない。
もうこれは現実的に、何度も言うけども、積んじゃったものは仕方がない。しかしこの経済のシステムが頑張り次第でひっくり返せるように、カルマの世界も、どんな悪業でもひっくり返せる。じゃあひっくり返すしかないじゃないかと。しかも皆さんが出合ってるのは、なんかまるでお得なセールのような、この道を行けば一瞬で(笑)、一瞬ですべての悪業浄化されるよとか、いろんな素晴らしい文句が載っているバクティとか密教の世界があると。え、そうなのかな?――これは確かにそうなんだが、それは事実だが、その一攫千金というか、一挙逆転を狙うには、相当な熱意が必要だと。相当な熱意を持ってバクティをする。相当な熱意を持って帰依をする。相当な熱意を持って一点集中の修行を行なうことによって、全部ひっくり返せるかもしれないが、それには大変な熱意が必要だと。でも、逆にいうと熱意、つまり真剣にこの道を行けさえすれば、普通だったらひっくり返せないこの自分の悪業をひっくり返せるんだと、こういったことを現実的に考えるんだね。
だから昇華するっていうのは、よく心理学とかカウンセリングでやるように、頭の中で自分を納得させてもしょうがない。例えば、「いやあ、あれはしょうがなかったんだ」とかどうだこうだとか言ってもしょうがない。まずは受けいれてください。まずは自分は現実的に悪業を積んじゃったと。
普通でいったらさ、Tさんが、例えば自分が「死ね」って願ったことで次の日その人が死んじゃったら、やっぱり心にすごいトラウマになっちゃうよね。それはかわいそうだから、いや、そんなふうに考えなくていいですよ、ってなるのが普通かもしれないが、でもTさんにほんとに修行者としての、あるいは菩薩としての機根があるならば、それは逆に受け入れた方がいい。そうだと。わたしはとんでもない罪を積んでしまった。よってそのつぐないのために、あるいはそれをひっくり返して、つまり死んでしまったその人や、あるいは今まで自分が、自分の気付かないかたちで負債を与えてきた多くの衆生のために、わたしはもうエゴはいらないと、わたしはもう彼らのためだけに生きると、そのための材料にしたらいいんだね。
で、もう一回言うけども、ここにおいて暗さはありません。あるいはネガティブな意識もありません。もう推進力しかないんだね。そういうふうに、今ちょっといろんなヒントを言ったけども、そういうかたちで懺悔、それから懺悔からのジャンプアップの材料として、自分の過去の悪業への反省を使ったらいいんだね。
はい、最後にちょっと付け加えとして、ちょっと今日の話と直接的には関係ないですが、まあ、さっきの懺悔の話とかとは関係がありますけども、さっき言ったようにね、懺悔をしっかりして、そして同時にそこからジャンプアップするために、心を込めてね、ある意味気高く、自信を持って道を進まなきゃいけない。それが懺悔の重要性と、それからヴィヴェーカーナンダやラーマクリシュナが言うところの、「自分の本性を信じて気高く生きなさい」の融合ね。
で、特にこの後者の「気高く生きなさい」っていうのは非常に重要で――一つ、いつも言ってることに付け加えるとね、今日の話にもあったような慈悲とかの教えと、それから周りに流されるっていうのは、また別です。われわれは、もちろん菩薩としてはみんなの心持ちに敏感でなきゃいけない。つまり、ただの空気の読めない、みんなの心が分からない人じゃ駄目ですよね。みんなの心は分かんなきゃいけないけども、でも自分は流されちゃいけない。周りが何を言ってこようが、周りがどういう感じでいようが、自分自身は流されない。で、そのためには、やはり自分を信じる気持ちが大事なんだね。
で、この信じるっていうのは、ちょっと誤解を恐れずに言うと、思い込みに近いです。思い込みぐらいでちょうどいい。つまり例えば、「わたしはきっと神の使命を受けて、今はちょっといろいろけがれた中に没入しちゃってるけど、本来は神の使命を受けて、先生や仲間たちと一緒に神のリーラーを手助けするために生まれてきた、神聖な存在なんだ」と。絶対そうなんだと。で、それを自分の自信につなげるんだね。そうなんだと。だからこそわたしは、そんな過去に積んでしまった悪業なんていうのはものともしないと。それくらいひっくり返せるだけの精神力や祝福を持ってるんだと。わたしにそんなことができないわけがないじゃないかと。それくらいの強い意志を持つと。
で、もう一回言うと、周りに対する慈愛による気遣いは大事なんだが、しかし信は強く持つ。絶対に流されない。まさにヴィヴェーカーナンダのような、なんていうかな、もう誰も敵わない――敵わないっていうか、どんな情報にも、自分の心を一インチも動かされない、ぐらいの強い信は必要なんだね。
もちろんそれがズレてたり間違ってちゃ駄目だから、ちゃんと教学して、正しく理想を持たなきゃいけないんだけど、その理想は誰にも動かせないっていう正しい自信ね。これを持った上で、自分の信を確立した上で、周りに対する細やかな気遣いをすると。これが大事だね。
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