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解説「菩薩の生き方」第十六回(4)

 はい、そして動物界。この動物界も、いつも言うように、無智であると。われわれは肉体を持ってるときは、当然肉体に、この精神の、魂の機能っていうのは支配されます。だから当然この大脳、脳の働きにわれわれは――つまり動物だって、人間だって、神だって、みんな同じ真我を持ち、あるいは同じ、なんていうかな、仏性を持ってるわけだけど、しかしこのボディに支配されちゃった段階でそのボディの影響を受けるわけだね。だから動物もみんな仏性は持ってるんだけど、しかし動物でいる間はその動物の脳の働きに支配されるから、当然それは、まさに無智であると。つまり崇高な真理っていうものを考えることができない。だからこれは、ほんとにストレートな意味で、動物は修行ができない。当たり前だけどね。
 ただ、例外はあるよ。例外っていうのは、お釈迦様とか偉大な聖者が動物に生まれ変わるときがある。で、その弟子たちもそれについていくときがある。この場合は例外だね。この場合は大脳というよりは、より深い意識によって、まあ動物界で何か修行するんでしょう。しかし一般的には動物に生まれたら、普通に言って、つまり深く考えられないから、本能的なことしかできないと。あるいはちょっと、なんていうかな、感情とかはちょっとあるだろうけど、しかし分析とか、つまり「なぜわたしは生まれたんだ」とかね(笑)、「真理とはなんなんだ」とか、そういうのが考えられない。もちろん魂レベルでは、例えば修行のカルマがあったりしたら、修行にはちょっと興味は持つかもしれないね。何回か言ってるけど、そういう動物の話もよく聞くよね。Mさんの飼ってる猫が、礼拝してるとじっと見つめてるとかね。そういう話よくあるよね。つまり、なんとなく直感的に縁を感じ、あるいは智慧によって聖なるものにピーンと惹かれる動物はいるかもしれない。でもそこまでですよね(笑)。そこから先がないよね。「ん? ん? ん?」ってなって(笑)、「ウーン」って行ってしまうと(笑)。「ん?」ってなることはあるけども(笑)。
 ――皆さん、人間だったらさ、「ん?」ってなったときに「これは!」と思って、「何か違う。ここには何かあるかも!」――ここまでいけるけども、動物は「ん? ウーン……」って(笑)、「じゃあなんか食べるか」とかね、「ちょっと休むか」とかになってしまうと。これが動物の無智であると。だから動物でも、当たり前だけど、修行はできないと。

 はい、次が低級霊、つまり餓鬼の世界。餓鬼の世界っていうのはまさに、なんていうかな、貪り、あるいは執着、妄想、つまり心の病ですね、一種のね。心の、ものすごい、掻き立てられるような妄想によって苦しんでると。だからこれは精神的な意味で余裕がなく修行ができないと。
 ただこれも、例外はあります。ミラレーパとかがよくそういう女悪魔とかを救ったりするわけだけど。そういう仏縁があった場合、救われる可能性もあると。しかし、一般的には餓鬼の世界に生まれちゃったら、もうほんとに自分の執着する、あるいは嫌悪するいろんなもので頭がいっぱいになって、もう真理どころじゃないと。

 はい。次に神の世界。ここでいう神の世界っていうのは、いわゆる欲界、欲望の神の世界ね。これは、欲望の神には阿修羅と天界がありますけども。まず阿修羅界は闘争心、あるいは嫉妬心、批判心。これで頭がいっぱいで、もう修行できないと。で、次に天界は――まあ、これは阿修羅もそうだけど、天界、阿修羅に共通して言えるのは――特に天界がそうですけども、いわゆる一時的な、つまり無常なる意味でだけど、幸福度が非常に高いんだね。幸福度が高いっていうのは――ここでいう幸福度っていうのはさ、別に、お金いっぱいあるとか、そういうんじゃないよ。天界でお金持っててもしょうがないからね。つまり五感の喜びや、精神的喜び――それは、繰り返すけど、悟りではない。あるいは真理の悟りのエクスタシーとはちょっと違う。そうじゃなくて、まだ現世的なんだけど、つまり皆さんが現世で感じるような心の喜び、あるいは五感の喜びね。例えばおいしいとか、あるいは性的な喜びもそうだけど、あるいは美しい景色とかね、こういったいろんな外界における喜び、あるいは精神的なある程度のある段階までの喜びがあって、で、それが強烈なエクスタシーになってる。で、その喜びの度合いがもう半端ないので、修行したいと思わない。
 ただ、神の場合は智慧はある程度あるから、修行しなくちゃとは思ってるんだね。しなくちゃって思ってるけど――だからまさに浦島太郎みたいなもんだね。「修行しなくちゃいけないけども、ちょっとぐらいはいいか」と。うん。つまり例えば天女に囲まれ、あるいは何食べても――ちょっとイメージ的に言うとね、「おおっ! なんだこれは!」と(笑)。「この食べ物は何!? おおっ!」っていう感じ。で、天女とかも――例えばいろんな描写があるけどさ、美しい天女が現われて、例えば目で見つめ合うだけですごいエクスタシー。「ああ、きれいな天女が来たな」――見つめ合ったら「ウオー! ワーッ!」(笑)。「なんだこれは!」と。素晴らしい香りがしてきたと。「この香りは!」と(笑)。もうこういうのが連続なわけだね。連続で、もうボーッとして、毎日が楽し過ぎると。ここに、例えば前生からの縁ある法友とかグルとかやってきて、「はい、じゃあ君そろそろ修行しようか」って来ても、「分かってます! 分かってますけども、ちょっとだけ」って感じで。で、ちょっとだけってやってるうちに一万年、十万年、百万年経っていくと。で、気付いたときには徳がなくなっています。当たり前ですよね。だって徳積まないで最高レベルで浪費してるから(笑)。もちろん徳があったから天に生まれたんだけど、その徳をその最高のエクスタシーで浪費してるから、あっという間になくなってしまう。あっという間といっても天の寿命はものすごく長いことは長いけどね。それは何十万年とか何百万年とかあるけども、しかしそれも有限であると。
 はい。天界っていうのはその無常なる偽りの幻である喜びがあまりにも強い。だから修行ができないと。

 つまり人間界っていうのは、逆にいうと、いつも言ってるけど、中途半端なんだね。だから修行できるんです。逆にね。つまり、地獄ほど苦しくないと。天ほど楽しくないと(笑)。だから悩むんです、人間は。そこで悩みが出るんだね。「なんで生まれたんだろう?」と。天ほど楽しかったら悩まないよ、きっと。毎日、「ああ、なんだこれは、なんだこれは」って、「うわー! 楽し過ぎる!」っていうのがずーっと続いたら、一生続いたら、悩まないですよね。で、それはもちろん、繰り返すけど偽りの喜びなんだけど、でもあまりにも楽し過ぎるので、偽りだって気付けない。逆に言うと、だから人間は非常に恵まれてる。そんなに楽しくないでしょ。みんなごまかしながら「人生楽しい」とかやってるけども、本音言うとそんなに楽しくない。ね。なんとかごまかしてつじつま合わせようとしてるけどね。本音言うと楽しくない。だからといって、なんていうかな、地獄ほど、つまり、もう一切何も考えられないっていうほど苦しいわけでもない。苦しいけども、なんていうかな、まだ考える余裕はあると。よってそこで悶々とした思いが生まれる。この中途半端な状況からくる悩み、悶々とした心の思い、これこそが修行するために必要な心の要素になるんだね。
 これ、修行始めてからももちろんそうだよ。修行始めて、ほんとにすべてが整っちゃって――まあ、いろんなキャパシティがあるからね。ある人はちょっと徳が積まれてきたら、ちょっと幸せになったと。で、キャパシティっていうのは、まあ、ちょっとこれも何度も言ってるけど、その人がもし前生で天界にいたとか、あるいは天界よりも上の色界とかにいたりしたら、人間の喜びなんて、たかが知れています。人間界で例えば多くの異性にもてたり、あるいはおいしいものをたくさん食べたり、あるいはいろんな人から褒められたりしたって、虚しい。でも前生動物とか地獄とかいたらさ、それは楽しいよね。前生地獄でワーッてなってた人とか、あるいは動物界でいつも外で雨に打たれて、弱肉強食でいつ敵にやられるか分かんなくてね、で、病気になってもそのままで。そんな状態で生きてた魂がポッと人間界に生まれて、ね、食べる物はおいしいし、安全だし、敵がいないし。で、周りの友達は優しいし、あるいはみんな褒めてくれるし。こんな状況だったらやっぱり執着しますよね。あるいはそれがいいんだって思ってしまう。これ、キャパシティが狭い人。つまり、あまり前生とかで高い世界の経験をしてない場合、この現世の、まあほんの少しの喜びに束縛されてしまうと。しかし、そういった経験をひたすらしてる場合、つまり苦しみの経験、喜びの経験、こういったものを輪廻でたくさんしてる魂は、やっぱり虚しくなるんだね。なんかこの世で幸せになってきたけど、でもやっぱりそこには答えはないと。虚しいと。これができるのが人間界であると。

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