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解説「菩薩の生き方」第十六回(3)

 すべての衆生がけがれのない感官を完全にそなえ、難を越えて、行ないが自由自在となり、正しい生活を送る者となりますように。

 はい。これはさ、つまり、まあ何回かやってるけどね。ここで「難を越えて」っていうのは、いわゆる、われわれが真理に巡り合い、そして修行ができない原因となるものを難って言ってるわけだね。一般的にはよく八難っていって八つの難を挙げ、あるいはその細かいものとしてさらにたくさん挙げるわけだけど。まあ、つまりそれはさ、分類しようと思えばいくらでも言えるわけだね。われわれが修行に出合えない、あるいは修行できない原因っていうのはたくさんあると。
 ちょっと復習すると、基本的なものから言うと、まず、当然だけどわれわれがまず地獄に生まれたら修行できないと。あまりに苦しくて。ね。それは分かるでしょ? 体が切り刻まれてるときに呼吸法とかできないよね(笑)。体中にさ、熱した鉄とかを注がれてウワーッてやってるときに教学なんてできませんよね(笑)。もう頭が狂いそうなほど、われわれは地獄で苦しまなきゃいけないと。それは皆さんの想像を絶する世界だからね、地獄っていうのはね。もちろんその中でもし皆さんが教えを思い出したり、あるいは慈悲の教えを思い出したら、あるいは至高者やグルのことを思い出したら、地獄から救われます。
 ちょっと話がずれるけど、その訓練っていうのは日々やっておいた方がいいのかもしれない。これは何度か言ってるけども、例えばわたしの経験でいうと、まあ、いわゆる瞑想で深いバルドに入ったときに、そういった地獄、あるいは地獄とはいえないんだけど、なんていうか非常に苦しみのバルドみたいなのにガーッて突っ込んだときに、その中で自分で「ああ、苦しい、苦しい」と思ってると決して救われない。でもその中で、あ、自分だけじゃないんだと。みんなも同じように苦しんでる魂がこの苦界にたくさんいると。それに気付いて、「わたしは修行者なんだから、菩薩なんだから、救済者なんだから、こんな苦しい苦しいって言ってられないと。みんなを救わなきゃいけない」って思いがガーッて出た瞬間に、パーッて世界が変わって(笑)、光の世界になると。これは一つの瞑想経験ね。
 じゃなくて、そうだな、わたしの、これも最近言ってないけど昔よく話してた話として、わたしが高校生ぐらいのときにね、修行してて、いわゆる強烈な体の浄化が起きて、その浄化の原因っていうのはいわゆる礼拝、五体投地をやってて、腕が血だらけでグジャグジャになって、それを全く治療しないでいたらばい菌が入っちゃって。ここのリンパが腫れちゃってね。これは何度も話してるのであんまり突っ込んでは言わないけど、このせいでもう体中にいろんな症状が出て、ちょっと、まさに死ぬほどの感じだったんだけど。で、そのときに、体にいろんな症状が出てたわけだけど、まあ一番のその大もとであるこのリンパね、リンパの腫れもこぶし大ぐらいに腫れてて。まあ病院に行かなかったんだけど。病院に行かないし、もちろん両親とかに言わなかったんだけど、定期的にすごい痛みがやっぱり、当たり前だけどくるわけだね(笑)。痛みがくるときがあって。
 で、そのときはまだ、そうだな、わたしはまだ修行始めたばっかりで、まあ独学で例えばヨーガ系の『ヨーガスートラ』、『ハタヨーガ・プラディーピカー』とか『ゲーランダ・サンヒター』とかあの辺を読んだりとか、あるいは自分なりにいろいろ模索しつつ修行してたと。仏教系の仏典とかも読んでたけども、そこまでまだ菩薩道とかまでは至ってない段階だったんだけど、自分の中にあったデータなのか分かんないけど――非常に苦しいわけだね。苦しいっていうか痛いわけだね。痛くてもう、グーッとこう体を丸めて横になって耐えるしかないんだけど。グーッと痛い思いをしてるときに、祈ったわけです。何を祈ったかっていうと、一つは、自分がここで――つまり肉体的痛みだからね――苦しむことによって、同じように肉体の苦痛で苦しんでる地獄の住人が楽になりますようにと。そうなるならかまわないと。全部地獄の住人の苦しみがここにきて、みんなの、地獄のみんなの苦しみが楽になりますようにと。
 で、もう一つは、自分がこういうふうに苦しむことによって、そのような――もちろん地獄に比べたらまだ楽だけどさ、でもそういった一応肉体的な激しい苦痛に自分がさいなまれることによって、同じように苦しんでる地獄の住人たちの苦しみをわたしが理解できますようにと。そういうふうに祈ったんだね。
 で、それは、繰り返すけど、別に教えを読んだわけじゃなくて、自分の中に浮いてきた思いとしてそれを祈ってたんだね。そしたらスーッと痛みが消えたんです。で、そこでわたしは非常に学習わけだね。あ、そういうことかと。この慈悲の思い、あるいはそのような愛の思いを持つことで、実際にリアルにそういうことが起きるんだなと。
 で、これはもちろん、今言ったように、実際には、地獄の苦しみに比べたらこのリンパの腫れの苦しみっていうのはそこまでの痛みではないと。で、皆さんもいろいろあると思うんだね。そういった病気による肉体の苦しみ、あるいはいろんな出来事による精神的な苦しみ。で、繰り返すけどさ、ほんとのほんとに、ほんとに地獄落ちたら、普通はね、ほんとに大聖者じゃない限りは、当たり前だけど余裕はないよ。そんなこと普通できない。普通できないっていうのは、ほんとに切り刻まれてるときに、「この苦しみを……」とかいうのは(笑)、多分余裕ないです。もう頭狂いそうになります。もう、なんていうか、吹っ飛びます、すべてがね。でも、もう一回言うけども、理想は、吹っ飛ばないこと。その状態にあっても、「はい、みんなの苦しみわたしに来てください」って言えたら最高です。あるいはその状態にあっても、「すべては神におまかせします」って言えたら最高です。最高だけども、多分今の皆さんでは言えない。このギャップがあるよね。じゃあ日々それを埋めるしかないよね。その努力はやっぱりすべきだね。
 つまり、口で「菩薩になりたい」とか言いながら、日々小さなことでも「苦しい、苦しい!」と。あるいは怒ってると。「何すんだ!」って怒ってると(笑)。これで菩薩って言ってたらちょっとおかしいよね。もちろん志は高い方がいい。高い方がいいけども、現状と理想をのギャップを埋める努力をしてるのかと。
 繰り返すけど、いきなり最悪の試験として、「さあ、あなた地獄で体を切り刻まれながら慈悲を持てますか」「あるいは帰依を持てますか」っていうのはまだ難しいかもしれない。でもそこまではいかない、もうちょっと軽い試験が皆さんには日々来てるわけだね。で、それを皆さんは、しっかりそれを自分への試練とも試験とも考えずに全部排除して、で、志だけは高く持ってると。
 だから、ちょっと話が広がっちゃってるけども、そのような肉体的、あるいは精神的苦痛がやってきたら、これはもちろん地獄よりはマシであると。そしてこの地獄よりはマシな苦痛によって、神はわたしの心を鍛えてくださってるんだと。あるいはそのような修行をするチャンスを与えてくださってるんだと、そう考えたらいいね。
 はい、ちょっと広がっちゃったけど、とにかく一般的には地獄に落ちちゃったらシャレにならない苦痛の連続なので、もう普通は修行なんて全くできないと。

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