yoga school kailas

解説「菩薩の生き方」第十五回(3)

 「そしてこれらの菩提心の与える喜び・安楽が、宴のご馳走にたとえられています。
 多くの衆生は、幸福を求めているのにもかかわらず、逆に苦しみの迷いの輪廻の中をさまよっています。菩薩は彼らをこの菩提心の宴に招待し、単に彼らを喜ばせるだけではなく、彼らが安楽を受けている間に、彼らをブッダの状態にまでいざなおうと。――このような壮大な決意と確信と喜びの表現で、この第三章は締めくくられています。」

 これはまあ、イメージとしては分かりますよね。みんな、ほんとに苦しんでると。その苦しんでる彼らをなんとか救いたいと。で、まずは、この菩提心の喜びね。皆さんも日々いろいろあるだろうけど、この菩提心の喜びを、あるいは四無量心の喜びを感じたことはあると思うんだね。で、これがほんとに高まっていくと、ほんと素晴らしい喜びになる。それはいろんな意味で感じたと思う。例えばそういう本を読んで感じたかもしれない。例えば聖者の素晴らしい慈悲に満ちた話を読んでね、感動したとか。あるいは実際その菩提心っていう概念に巡り合い、それを実践できることに感動したとか。あるいは現実的に、実際に自分がいろんなかたちでエゴと戦い、慈悲の実践、菩提心の実践をなして、そこですごく感激したとかね。いろいろあると思う。つまりこの菩提心っていうのは、ほんとに本気でそこにすべての自分のエネルギーを傾け、そこに没頭するならば、あるいは自分の人生っていうか存在の中心にそれを置くならば、われわれに最高の歓喜、喜びをもたらしてくれ、――もちろん、繰り返すけど、四無量心が原則にあるわけだけど。
 ちょっと話が広がるけど、四無量心っていうものをもし皆さんがしっかり修習して身につけていったならば、当然ね、当たり前ですけど、その進度に従って、解脱するかどうかは別にして、幸せになります。幸せになるっていうのはつまり、心が解放され、幸せになっていきます。当たり前ですけどね。まず慈愛、つまり自分よりもみんなの幸福を願うと。この心を培っていく、あるいは実際に実践していくと。これをしっかりとなしたならば、皆さん自身が――これはいつも言ってるように非常に逆説的なんだけど、自分はどうでもいいからみんな幸せであってほしい――この気持ちを修習する、そして実践することで、逆に自分がすごく幸せになっちゃうっていうか、ものすごく自分が満たされた感じになっていく。だから逆に言うと、「ああ、わたしは不幸だ、わたしは不幸だ」と、こう言ってる人は反省しなきゃいけない。まだわたしはこんなにエゴが強いのかと。わたしは全然慈愛っていうのを理解してないし、実践していないんじゃないかと。
 次に、もし皆さんが慈悲というもの――つまり今度はみんなの苦しみに心を向け、みんなが苦しみから早く解放されてほしいなと。自分も苦しいかもしれないけど、それはもうどうでもいいと。だって自分は修行に巡り合ってるし、あとは自分がやるだけであると。自分が修行して――つまり自分がもしまだ修行を達成できていない、あるいは苦しみが多いとしたら、それはもちろん自分の修行不足であって、あるいはさっき言った慈愛不足であって、あるいは帰依の不足かもしれない。でも自分はそれをできるっていうか、修行できるだけの恵まれた環境にはあると。だからもう、これはただ自分がやるだけであると。しかし多くの衆生を見ると、そのようなダルマにさえ巡り合えていないと。これはほんとにかわいそうだと。あるいはもちろん自分の周りの人、あるいは法友でもいいけども、法友も、自分よりも例えば修行が進んでない部分、あるいは自分がもうある程度乗り越えた苦悩で苦しんでる人もいっぱいいるかもしれない。それに対してもすごい哀れみの念がわくと。なんとか、彼らがほんとに苦しみから解放されてほしいなと。あるいは日常的なことも全部そうですよ。日常的にみんなが苦しんでるのは見ていられないと。それだったら自分が苦しんだ方がいいよと。こういう感覚ね。
 これをしっかり修習し、そしてまあ、なんていうか、実践しようとしてる者は、いいですか――まずね、孤独に強くなります。孤独にね。つまり慈愛、そして慈悲を修習してると、孤独に強くなるんだね。これはわたしもすごく実感っていうか、経験として、いろいろ昔ね、感じたけども。なんていうかな、孤独に強くなるっていうのは、まあ孤独に強くなるんだけど(笑)、みんなの苦悩を、実際にそれができるかどうかは別にして、背負いたいと。あるいはみんなに自分の幸福を振りまきたいと。つまりまさにトンレンですね。トンレン的な心を徹底的に修習し、そして、実際に背負えてるかどうかは別にして、現実的にいろんな場面場面でそういう実践をしていると、もう一回言うけども、強くなっていくんだね、自分がね。逆に言うと、そういう強さ、まあ孤独だけじゃないんだけど、一つは孤独。あるいは、なんて言ったらいいかね、まさにでくのぼうとかそういう道ですけども、自分が例えば蔑まれたりとか、自分だけなんかみんなから認められてない気がするとかね、そういったことに対する、なんていうか、恐怖やあるいは弱さみたいなのがなくなっていくんだね。「ああ、どうぞ、どうぞ」みたいな感じになってくる。あるいはもちろん愛情欲求みたいな変な、つまり人間的な愛情欲求みたいなものがなくなっていくから。もちろん仏陀とかグルに対する強烈な愛はあるわけだけど、あるいは衆生への強烈な慈悲はあるわけだけど、自分がどうこうしてほしいっていう愛情欲求が非常に薄くなってくるから、強くなるんだね。強くなるイコール、もちろんこれも平安な心に育っていくっていうかな、自分の心が。
 はい。そして三つ目の「人の良いところを称賛する」――つまり嫉妬を超えて、みんなの幸福を喜ぶ、あるいはみんなの魂の進化を喜ぶと。あるいはちょっとでもみんなが、何かいいことがあったら、それを喜ぶと。これをやってる人は、これも結論だけ言うと、まあ、これもまた心が非常に広がるわけだけど、特に上に広がります。イメージから言うとね。心が上に広がる。つまり高い世界とのコンタクト、高い世界とのつながりが非常に強くなるんだね。で、上の方にバーッと広がっていって、その人の見る目、あるいは視野っていうのは非常に変わっていきます。これも非常に、それが解脱にまでいってなかったとしても、大変な幸福であると。
 はい、そしてそれらすべてのバックボーンとして、最後の「捨」。つまり自分は捨てると。自分のことはどうでもいいと。つまり今言ったのはすべて、「自分のことはどうでもいい」っていうその第一の背景がないと成立しないから。それもまた、まあ最初に言ったことと同じだけど、深めたことによって、逆に自分のことはどうでもいいって思ってた人が一番幸福になっていくと。これが四無量心だね。
 そしてその四無量心を土台として、繰り返すけど、それはもちろんしっかり修習しつつ、より崇高な――つまり、よって現実的にこの自分の願い、みんなを幸福にしたい、みんなを苦しみから救いたいっていう願いを果たすために、早くわたしは仏陀にならなきゃいけないんだと。だから一分一秒を惜しんで全力で修行しなきゃいけないんだと。あるいは自分のできる範囲で救済をしなきゃいけないんだと。これをひたすら日々考えてる人。この人の心っていうのは、まあ、大変な――もちろんやってることの、修行の苦しみとか、あるいはエゴと戦ってる苦しみとか、あるいは救済活動を行なってるときの苦しみはあるけども、でもベーシックな喜び、あるいは幸せ、あるいは平安っていうのはどんどんどんどん増していくんだね。もし増さないとしたら何かが間違ってる。それは菩提心と言いながら何か別のものをやってるのかもしれない。実際に四無量心もそうだけど、その平安は増していく。
 だからこれは、こういう話をするとちょっと厳しく聞こえるかもしれないけど、でもこの話の構図から言うならば、つまり、もう一回言うよ――この菩提心っていうのはほんとに、みんな馬鹿だから手を出さないだけで、それを修習したならば、もう一回言うけどね、まだ解脱とかいかなくてもいい。解脱とかニルヴァーナとかまでいかなくても、この現世においてまずその人を大変な幸福にしてくれる、まさにそういう、なんていうかな、エッセンスなんだと。だからこの宴、この菩提心っていう素晴らしいごちそう、あるいはおいしいこの甘露のようなものをみんなに振る舞いたいと。さあ、菩提心ですよと。これ以上の素晴らしいものはないからみんな来なさいと。そしてみんなをその菩提心の、菩提心が与える喜びに浸らせると。
 これはもちろん、繰り返すけど、そこまでの努力は大変だと思うよ。努力っていうのは、みんなまず分かんないから。菩提心、あるいは慈悲の心、四無量心がいいとか全然分かってない。やっぱりエゴを満足させるのがいいんだってみんな思ってるから。それをなんとか変えて、この菩提心の宴に招待する。つまり招待できるだけの存在にまずなってもらわなきゃいけないわけだけど、でもできるだけ早くみんなをこの菩提心の宴に招待したいと。そして、この菩提心の宴にみんなが集えば、みんなほんとに幸せになると。で、同時に、みんなに幸せを味わってもらいながら、さらに自分がしっかり修行してみんなの手伝いをして、早く早くみんなを完全なる覚醒の境地に至らせたいと。はい。これがまあ、菩薩の心だっていうことですね。
 ただ、繰り返すけどね、まず第一に――これはもちろん今日は菩薩道の話なので菩薩道に焦点を当ててるけど、バクティヨーガももちろん同じなわけだけど。バクティヨーガとか菩薩道っていうのは、ちょっと今も言ったけど、ほんとにそれが間違ってなかったら、まず幸せになるんです。つまり、もちろん、さっきから言ってるようにカルマと戦ってる最中の苦悩とかあるかもしれないけど、それはそれとして、ベーシックには幸せです。だからそうなってないとしたら、そうですね、間違ってるか、足りない(笑)。頑張ってるつもりでも何かが足りないと。あるいは、なんていうかな、もちろんまだ自分の過去の悪しきカルマとのバランスが取れてなくて、まだその悪しきカルマの浄化が終わってないというのもあるかもしれないけど。ただ浄化が終わってなくてもね、それぞれの相対的に見て幸福になります。で、これはまず自分もそうであると。自分が菩提心を修習すればそのように幸福になっていくと。そして、幸福になりながら解脱していく道なんだね、この道はね。
 つまり、何度も言ってるけど、昔メダサーナンダさんも言ってたけど、バクティヨーガっていうのは、「ああ、苦しい!」とか、「くそー、修行だ!」とか言いながら、なんていうかな、顔をしかめっ面にして苦しい苦しいってやっていく道ではないと。つまり神に触れてね、神のことをいつも思ってて、神は至福の塊だから、苦しくなるわけがないじゃないかと。神のことをいつも思ってたら当然至福であると。つまりそれは、もし苦しいとしたら、それはバクティではない。うん。バクティと言いながらエゴを修習してるだけだっていうことだね。
 菩提心も全く同じね。もし、「わたしは菩提心をやってるんだけど」――ヴィヴェーカーナンダもまさにそういうことを言ってるよね。「愛には苦しみはない」と。「もし愛を実践してると言いながら苦しみがあるとしたら、それは愛じゃない」と。「違うものを修習してる」と。この辺はバロメーターになる。だから例えば皆さんが苦しい苦しいってなってて、例えばトンレンでもいい。トンレンとかやってみる。あるいは菩提心に心をグッと合わせてみる。それで心が解決しないとしたら、それは何かおかしい。それはもちろん自分の真剣さが足りないかもしれないし、あるいは自分のとらえ方がちょっと間違ってるのかもしれない。あるいはエゴに対する甘やかしがひど過ぎるのかもしれない。でも、繰り返すけども、それがほんとに正しく適用されたならば、いいですか――菩提心、まあバクティもそうですけど、これらは、楽しみつつ、ね、幸せを感じつつ解脱する、あるいは完成者になっていく道なんだね。こんな素晴らしい道はない。
 でも、実はね、お釈迦様もそういうことを言ってるんだね。お釈迦様は、つまり菩提心っていう表現じゃないんだけど、この道、つまり仏陀の修行の道は、「一向楽」っていう言葉を使ってます。一向楽。一向楽っていうのは、楽、つまり至福を得ながら進んでいき、解脱する道なんだと。ただもちろん表面的なお釈迦様の教え自体はたくさん、いろんなフォームがあるわけだけど、でも繰り返すけど、そのまさにエッセンスがこの菩提心であると。だから繰り返すけど、自分の修行としてもそうだし、みんなもその道に入れてあげたいと。
 みんなを入れてあげたいっていうのは、みんなを解脱させたいっていうのはもちろんある。でも修行の道はなかなかつらかったりするよね。うん。で、もちろん皆さんもいろんな修行のつらい道を歩んできたかもしれない。これからも歩むかもしれない。もちろん、繰り返すけど、菩提心やバクティがしっかりできてたらつらくないけどね。でもできてなくてつらいこともあるかもしれない。でも、衆生にはつらいことも経験させたくないって考えるんだね。「おまえらもせいぜい苦しんで解脱しろ」とかじゃなくて(笑)。それは冷たい心だからね(笑)。「おれも結構苦しんだからおまえらももっと苦しめ」じゃなくて――まさにラーマクリシュナの弟子たちがそうだったように、みんなもうやらなくていいよと。おれたちがやるからと。あるいはサーラダーとかもそうですけどね。みんな修行しないから、しょうがないからわたしが修行すると。この感覚ね。みんなはできるだけ苦しまないで解脱させてあげたいと。
 はい。で、繰り返すけど、そのための最高の武器がまさに菩提心なんだね。だから皆さんがほんとに菩提心を持ってくれれば、苦しまずに、喜びを持って修行を続け、そして解脱するはずなんだね。もしここで、わたしは菩提心を持ってるのに幸せにならない、苦しみばっかりだっていう人がいるとしたら、繰り返すけど、それは菩提心のせいではありません(笑)。あなたたちの勘違いのせいです。あるいは心の弱さのせい、あるいは甘さのせいだっていうことですね。
 つまり、まさにさっきから言ってるように、使ってないよと。例えば、使い方が分かんないのかもしれない。うん。宝石の使い方が分からないと。例えば宝石があればいざというときにそれを、ある場合は質屋に入れたり、売って大金を手にすることができるかもしれないよね。あるいはそのほかのいろんな方策ができるかもしれない。でもそれが分かんなかったら、ただそれは重い輝く物なだけであってね。仮にその人がすごい貧乏になってなんとかしなきゃいけないときに、「でもおまえ、宝石あるじゃないか」って言われたとしても、全くそれが解決策を与えないとかね。なんとなく宝石の素晴らしさは分かってると。でもどう使ったらいいか分からない。そうなったらもちろん駄目なわけだけど。
 そうじゃなくて、何度も繰り返しになるけども、ほんとにそれが正しく使われたならば、皆さん自身の修行もまさに幸せと共に進み――これ、皆さんあこがれでしょ(笑)。あこがれっていうか理想ですよね。苦しみなく楽しく修行が進んでいき、最後は解脱すると。もうこれが一番いいよね(笑)。でもそれは可能であると。そして、それをみんなにもさせたいと。みんなを解脱させたいのは当たり前だけど、できればみんな苦しまずに解脱してほしいと。多くの試練に出合わずに――試練はもちろんいいわけだけど、そこで多くのエゴの苦しみとかを経験せずに、ちゃんと菩提心を身につけて、それによって早く心の広大さを手に入れて、素晴らしい喜びと共に解脱してほしいなと思うと。これがこの表現ね。だからその宴にみんなを早くいっぱい招待して、そして、喜びを味わってもらいながらどんどん解脱していってほしいんだと。このために生きる。このために自分の存在はあるって考える。――それがまあ、菩薩だっていうことですね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする