解説「菩薩の生き方」第十五回(1)

2016年7月2日
解説「菩薩の生き方」第15回
【本文】
あたかも塵芥の堆積の中から、盲人が宝石を得ることがあるように、この菩提心は、偶然に私に出現した。
これは世界の死をなくするために現われた霊薬であり、世界の貧困を除くための不滅の財宝である。
世界の病を癒すための最上の薬であり、迷いの存在の道程(輪廻)にさまよい疲れし衆生の休らう大樹である。
難路を超えるためのすべての旅行者に共通の堤防であり、世界の煩悩の熱を冷やすために昇れる心の月である。
世界の無智の暗黒を払う偉大なる太陽であり、正法の牛乳を攪拌して生じた新鮮なヨーグルトである。
安楽を受けようと渇望して、迷いの存在の道程をさすらえる衆生の隊商に、この安楽の饗宴はもうけられた。すべてこれに近づく衆生は、満足を得よう。
今や私は、世の人々を安楽の饗宴に招待している間に、彼らをスガタ(ブッダ)の状態にいざなう。
実にすべての救済者の面前で、神々と阿修羅等は歓喜せよ。
【解説】
この最初の部分は、シャーンティデーヴァが謙虚な心を表現していますね。自分は菩薩とは程遠い、徳のない者なのだけれど、まるで偶然のように、菩提心が自分に出現したんだ、と言っているわけですね。
「世界の死をなくす」というのはつまり、すべての衆生を解脱させるということですね。解脱しない限り、死んでまた生まれ変わり、また死にます。この循環は解脱しない限り終わることがありません。
「徳がない状態」という貧困をなくし、煩悩という衆生の病を治し、輪廻にさまよう衆生に安らぎを与え、輪廻や修行の難路を越える手助けをし、世界の無智の暗黒を払う!
――このような菩提心は、正法の牛乳を攪拌して生じた新鮮なバターだといいます。つまりお釈迦様がお説きになった正法は、様々な表現で様々な角度から説かれたわけですが、それらを攪拌して現われた新鮮なエッセンス、それが菩提心だというわけです。菩提心こそはすべての真理のエッセンスなのです。
そしてこれらの菩提心の与える喜び・安楽が、宴のご馳走にたとえられています。
多くの衆生は、幸福を求めているのにもかかわらず、逆に苦しみの迷いの輪廻の中をさまよっています。菩薩は彼らをこの菩提心の宴に招待し、単に彼らを喜ばせるだけではなく、彼らが安楽を受けている間に、彼らをブッダの状態にまでいざなおうと。
――このような壮大な決意と確信と喜びの表現で、この第三章は締めくくられています。
しかし全く、この入菩提行論には、本来は解説はいりませんね。この本文の美しさには、どんな解説も蛇足となってしまう気がします。
しかし中には少しは、解説によって理解が深まる方もいるかもしれませんので、解説を書かせていただいています。本文で十分意味が理解できる方は、解説は読まないようにしてください。
はい。これは読んだとおりですけどね。まず最初の部分、
「シャーンティデーヴァが謙虚な心を表現していますね。自分は菩薩とは程遠い、徳のない者なのだけれど、まるで偶然のように、菩提心が自分に出現したんだ、と言っているわけですね。」
と。この『入菩提行論』は、最初からずっと説明してるように、シャーンティデーヴァの、自分の思い、あるいは自分に対する菩提心、菩薩道の分析みたいな感じで進められるわけだけど、実際にはもちろん、シャーンティデーヴァも、「これは自分のために書いてるけども、自分と同じような性質を持つ人がいるならばこれを読んで役に立つだろう」と言ってるわけだけど、実際にはもちろんそれを狙ってるわけだね。自分に対する戒め、あるいは分析のようなかたちで書いてるけども、実際には多くの衆生にしっかりと当てはまる、あるいは多くの衆生がこれを読んで利益になるようなかたちで書いてあるわけですね。だからこれはもちろん、シャーンティデーヴァの独白というよりは、われわれ自身の話として考えなきゃいけない。
例えばここの本文の、
あたかも塵芥の堆積の中から、盲人が宝石を得ることがあるように、この菩提心は、偶然に私に出現した。
――つまり、このたとえ分かりますよね。塵芥。つまりゴミ、チリ、あるいは砂漠かもしれない。ここに盲人がいますと。盲人だから目が見えない。この目が見えない人が、適当に歩いて転んだかもしれない。適当に歩いて足が当たったかもしれないが、偶然宝石を得たと。偶然宝石を発見したと。これと同じように、われわれがこの人生において、あるいはこの魂の遍歴において、菩提心っていう教えにまず巡り合い、そしてそれを――いいですか?――自分もそのようでありたいと、そのような菩提心を持ちたいと、あるいは菩薩のようでありたいっていうふうに思ったっていうこの事実、これはまさに、盲人が偶然砂漠や塵芥の中から宝石を発見したようなものだと。
つまり、意味分かるよね? これはまあ、なんていうかな、まあ、よくそういう瞑想でもやるわけだけど、われわれはしっかりと懺悔をし、あるいは自分を振り返るならば、「わたしはなんて心がけがれてるんだろう」と。あるいは「なんてカルマが悪いんだろう」と。ね。例えば世の歴史上の聖者方と比べてみると、自分の心のけがれ、これはもう恥ずかしいと。本来ならば、わたしは今こうして人間としているけども、地獄や動物や餓鬼に落ちてもおかしくないような魂であると。その観点から考えると――つまり、もう一回言うけどね、例えば偉大な、もちろんこのシャーンティデーヴァもそうだし、パドマサンバヴァやナーローパ、ミラレーパ、あるいは多くの菩薩方がいらっしゃると。彼らのようにほんとに曇りなき心を持ち、そして何生も何生もただただ衆生のためだけに生きると。自分のことは全く頭にさえのぼらないと。このような魂が今生また生まれ、菩提心を得るのは当たり前ですけども、われわれにはその要素がないじゃないかと。われわれにはそんな要素がない、けがれの集積みたいな、つまりまさに塵芥のようなわれわれの心なんだけども、今生見つけちゃったと。ね(笑)。
もちろんこれはね、ほんとのことを言うと、もちろん偶然じゃないよ。ほんとのことを言うと偶然じゃなくて、実はそれは皆さんの過去世からの素晴らしい修行や努力の賜物であって、あるいは主の恩寵であったりするわけだけど、でもその点だけを見るならば、偶然としか思えない。「なんで? いいの?」みたいな感じなんだね(笑)。これだけ、われわれがこの菩提心の教えに巡り合い、そして少しでもそれを身につけたいと、菩薩になりたいって思えるっていうことは、それだけの価値のある、そして奇跡的なことなんだと。
で、もう一回言うけども、シャーンティデーヴァは――もちろんシャーンティデーヴァは偉大な菩薩ですけども、あえてちょっと謙虚なかたちで言ってるわけだね。われわれはもちろんリアルに謙虚に考えなきゃいけない。われわれはほんとにけがれがこんなに多いのに、主の恩寵によって、もう偶然としか思えないかたちで菩提心に巡り合えたと。で、菩提心を持つことができたと。これをまず心から喜ばなきゃいけない。
はい。そして、そのあとその菩提心の賛嘆っていうかな、素晴らしさがバーッて述べられてるわけだけど、ちょっと解説を見ていくと、「世界の死をなくす菩提心」だと。これは美しい言葉ですね。世界の死をなくす――つまり、すべての衆生を解脱させると。当たり前だけど、生まれたものは死ななきゃいけない。じゃあ死をなくすにはどうすればいいか――生まれきゃいいと。ね(笑)。生まれないっていうのは、もちろん皆さんなら分かると思うけど、別に無になる、無に帰するというわけではない。つまり、もともと生まれないのが正しい。菩薩はもちろんあえて生まれるわけだけども、本来はすべての魂が生まれない状態、つまり真我、あるいは仏陀の本性に安らいでる状態が最高っていうか正しいわけだね。だからその意味で、ちょっときれいな表現として、「世界の死をなくす」と。
つまり、この菩提心――ここでさ、こういう表現が何度も出てくるわけだけど――つまり、菩提心がみんなを救うとかね。これは何回か言ってるけど、実際には二つの意味があります。二つの意味っていうのは、一つは、つまりわれわれが、菩薩が菩提心を持つことによって救済活動を行なってみんなを救うと。で、もう一つは、分かると思うけど、みんなに菩提心を教えると。つまりこの菩提心を持った者こそが救われるんだ、という考えね。
だから、もちろん段階があるわけだよ。いつも言うように、まだカルマの悪い魂は、あるいはまだ徳のない、智慧のない魂は、カルマとか、あるいはそうだな、解脱とかは理解できるかもしれないけど、菩提心は理解できないと。その場合は教えられないよね。あるいはその場合は、菩提心の効力が発揮できない。だからもっと基本的な教えや、徳の教えや、カルマの教えや、あるいは心の浄化でいくしかないわけだけど。しかし、できるならばっていうか、その魂が智慧が高まり、徳が高まり、準備が整ったならば、菩提心を教えなきゃいけない。なぜならば菩提心こそが――このあとも出てくるけど、すべての修行のエッセンスであり、真理のエッセンスであり、それだけが衆生をこの迷妄から救う鍵なんだっていうことですね。その人自身が菩提心を持つことがね。