解説「菩薩の生き方」第十九回(2)

たとえこの世界のすべての生き物が自分の敵だったとしても、私のことを地獄に落とすことはできません。なぜなら、地獄に落ちるかどうかは、自分の心の状態やカルマによって決まるのであり、他者の介入はそこにはないからです。しかし自己の心に住む煩悩というこの敵は、一瞬にして我々を地獄に落とすこともできるのです。
はい。これは有名な一節ですね。一般的にいわれる意味での敵ね、つまり例えば隣の国が敵となって攻めてきたとかね、あるいは隣人が敵となってわたしに嫌がらせをしてくるとかね、いろいろありますよね。で、例えばもう全世界、全宇宙の衆生が全員わたしの敵となり攻めてきたとしても――それでわたしの体は殺されるかもしれないよ。でもそれは別に大したことではない。カルマによってまた次の転生をするわけだから。しかしどんなに、誰がわたしを攻撃しようが、それでわたしを地獄に落とすということはできないと。つまり地獄に落ちるかどうかは自分のカルマですから。つまり自分が何をなしたか、自分の心の状態がどうであるかで決まるわけだから。他者が物理的にエイッてやってわたしを地獄に突き落すことはできない。しかし、つまりどんな敵でさえもわたしを地獄に落とすことはできないはずなのに、煩悩はできると。この煩悩という敵にだけはできると。だからとんでもない敵なんだね。――っていうのがここのところですね。
そして、普通、金持ちの主人などは、召使が忠実に仕えれば、給料を与え、あるいは様々な恩賞を与えたりもするでしょう。しかしこの煩悩という主人は、我々が忠実に仕えれば仕えるほど、苦しみをもたらすのです!
しかも、普通、たとえば嫌な敵がいたとしても、そのうち死んでしまうか、どこかに行ってしまうかもしれません。しかしこの煩悩という敵は、私が何とか打ち滅ぼさない限り、永遠に死なず、私の心に住み続けるのです。
よって今こそ私は、この煩悩という敵と戦うために立ち上がり、戦を交えよう! というシャーンティデーヴァの勇ましい決意が、ここには語られています。
はい。これも面白いね。まあ、つまりいろんなかたちで、煩悩に対するわれわれの間違った認識を改めようとしてるわけだね。
まず、「普通、金持ちの主人などは、召使が忠実に仕えれば、給料を与え、あるいは様々な恩賞を与えたりもするでしょう。しかしこの煩悩という主人は、我々が忠実に仕えれば仕えるほど、苦しみをもたらす」と。
一般的にわれわれが誰かに仕える――それは仕事のシステムにしろ、あるいはまあ、実際に召使いになった場合にしろ、この仕えるっていう関係ができた場合、こちらとしては当然いろいろ大変なこともあるけど、しかしまあ、それに対する給料であるとか、あるいは恩賞であるとか、あるいはご褒美とかっていうのは普通はあると。ひどい場合でも、ねえ、食事は与えられるとか、なんかあるかもしれない。しかしこの煩悩という敵は――つまり普通は、もう一回言うよ――例えば仕えた場合、例えば昔の王様と召使いの関係があるとして、忠実じゃない場合は恩賞も少ないかもしれないけど、忠実であればあるほど、もう、なんていうかな、身を挺して、徹底的にその主人のために仕えてるっていう状態だったら、当然主人は、「おお、おまえはよくやった」と、あるいは「よく仕えてくれた」って感じで――まあ昔の殿様とかもそうかもしれないけども。例えば豊臣秀吉も、まあ豊臣秀吉はもともと農家の、つまり昔の士農工商でいうと低い生まれだったわけだけど、しかし織田信長に仕え、まあ非常に、全力でお仕えしたと。で、そこで織田信長にかわいがられて、引き立てられて、最終的には天下を取るわけだけど。そういう感じで、誠心誠意を尽くしていたら、当然、普通の主人と召使いの関係においては多くの恩賞を得るわけだけど、しかし煩悩というのは逆であって、仕えれば仕えるほど(笑)、ね、忠実であれば忠実であるほど苦しみをもたらすと。こんなとんでもない敵に、なぜ主人みたいに仕えるんだっていう話だね。
はい。で、次に、「たとえば嫌な敵がいたとしても、そのうち死んでしまうか、どこかに行ってしまう」と。
つまり、皆さんも人生の中でいろんな、いわゆる敵が現われたり、あるいはいろんな嫌なやつが現われたり、いろいろしたと思うんだよね。例えばわたしも、何度も言ってるように、中学生のときに、最初はすごく楽しい仲間がいたわけだけど、転校して、その転校先の学校で大変いじめられたと。で、わたしは、そのころに修行も始めたし、それからもともとちょっと男性的なプライドもあったから、それを自分の修行の機会みたいにとらえて頑張ってたわけだけど。でももちろんつらいところはありましたよね。でもそれはあくまでも限定的ですよね。うん。もう最大でも卒業するまでですから。ね。で、卒業するころにはそういったものも終わっていくと。あるいは会社でのいろんな苦しいことや、あるいは隣人とのいろんな軋轢とかいろいろあるかもしれないけど、でもカルマって流れていくから、普通はある程度経ったらいろいろ状況が変わって――まあ自分の心も変わるかもしれない。いろいろ変わって、敵が敵じゃなくなったり、あるいは去っていったり、いろいろしますよね。もちろん長く続くこともあるかもしれないけど、でもそれでも永遠ではない。で、ぶっちゃけて言ってしまえば、最後にはその敵といわれる人たちも死ぬと。しかし、煩悩だけはそのような、置いときゃいいっていうそういう問題じゃないと(笑)。置いとけばいつかはなくなるじゃなくて、こっちが積極的に打ち滅ぼす、積極的に叩きのめして追い出さない限りは、ずーっと居座り続けるということですね。
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