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◎宝物


◎宝物

 で、また別の考え方もある。別の考え方としては今度は、今生を見た場合。今生の普通の目に見える関係性を見た場合ね。これも超肯定的な目で見なきゃいけないんだけど。まあこれは仏教の話だけど、やっぱりわたしの感覚からいうとバクティ・ヨーガ的な発想を絡めた方がとても分かりやすいんだね。

 どういうことかっていうと――これはかなりバクティ的になるけども――いつも言うように、「すべては神の愛だ」と。わたしの周りに現われる現象っていうのは、百パーセント神の愛だと。つまり、わたしの目から見ると、いいことがあったり悪いことがあったりいろいろあるように見えるけども、実際は百パーセント神の愛によってわたしは引っ張られてる――この感覚ね。この感覚があると――ということは、そこに現われる人々っていうのは、まさに神の愛の現われなんだね。だから一見自分にとって悪い、あるいは敵みたいなように見える人も、それは単に自分が理解できないだけであって、自分を幸せに導いてくれる恩人なんです。こういう見方もできる。

 で、それは智慧がないから分かんないわけだけど。例えば例をあげると、まあいつも例に出すけど、ここの教室ができるときとか、例えばね、ここの教室ができるときって、元は湘南台の駅の近くのマンションの一室にこの湘南台教室があったわけだけど、隣にちょっと口うるさいおばさんがいて、で、まあ、あるときいろいろといちゃもんをつけてきた。つまりなんかお香の匂いが臭いとか(笑)、あと、このマンションではヨーガ教室やっちゃいけないんだよとか(笑)、いろいろこう関係ないのにいろいろいちゃもんつけてきて(笑)、で、われわれも別にそれと戦うこともできたわけだけど、当然そこで戦わなかったんだね。「ああ、これはカルマだ」と思って。で、その隣からのすごいクレームを受け入れて、「申し訳ございません」と。で、次の引越し先を探したんだね。

 はっきりと論理的にいったら、あそこはTさんの家の持ち家だったし、別に何をしようが関係ないじゃないですかって言うこともできたんだけど、それはあえて戦わずに、「ああ、これはそういう流れなんだな」と思って新しい物件を探したんだね。最初はなかなかいいところが見つからなかったんだけど、まあ格安でこの物件が見つかったと。それも奇跡的っていうかな、そのころ、そうですね、一ヶ月近くいろいろ物件探してたのかな。で、なかなか見つかんなくて、で、ちょっとこうしばらく時をおいて、そうしたらちょうどこの物件が――この物件、実はもうちょっと値段高かったんだけど、誰も借り手がつかなかったんで、ガクッと下げた、値段をね。ガクッと下げて不動産屋がネットにアップしたその日に、ちょうどわたしがタイミングよくピッて見たんだね(笑)。そしたら「ああ、何だここ、広くて安い」(笑)。で、その日にもう速攻で電話して、ここに道場が移ったんだね。で、まあ今では大人気の道場だと(笑)。まあ格安でこれだけ広くてね、すごくいい場所になった。

 でもそれも、逆に遡って見るとね、あのおばさんが文句言ってこなかったら、この道場はなかった。大変な恩があるんだね(笑)。それはあのおばさんはまさに――つまりわれわれにね、智慧があったらピピピッと智慧によって、「ん? 今こそ引越しの時期だ」と。「あそこに物件がある」っていうことを仏陀みたいにできるんだろうけど、われわれがよく分かってないから、隣のおばさんがその役回りをかって出た。「あ、あいつら、そろそろ引っ越さなきゃいけないのに全く分かってない」と。「わたしが嫌われ役をかって、教えてやろう」っていうふうにその人が思ったかどうか分かんないけど(笑)、でも客観的にはそういういう感じで役割を演じてくれた。そう考えると、大変な恩をそのおばさんに感じていると。

 でもそうじゃないネガティブな、あるいは非常に狭い見方をすると、あのおばさん、本当に嫌なおばさんだったねと。でもわれわれは徳があったからいいところ見つかったねっていう、そういうなんかこう(笑)、ちょっと二元的な意識になっちゃうんだね。

 でもそうじゃないんだと。すべてはこう絡み合っていて、すべては一見悪く見えるものも、神の意思によってわれわれの前に現われているんだと。よってそういう意味でも、すべての魂は恩人だと。

 一般的にもよくいわれるようにさ、われわれは一人で生きているわけではない。わたしたちが何か一つのことをやるにも、いろんな人の行動であるとか努力がいろんな形でこう積み重なって、自分に影響を与えているわけじゃないですか。そういうことも考えてもいいかもしれないね。

 まあよく小さいころ言われたと思うけど、「お百姓さんが作ったご飯だから」――まあうちのお父さんとかも、まあTさんとかもそうだったっていうけど、厳しくて、もうご飯粒一個も残しちゃいけないと。「お百姓さんが八十八日かけて作った」とかね、いろいろこう言うわけです。ああそうだなと。まあうちのお父さんはちょっと道徳的なお父さんだったんで、そういうことをこういろいろ言ってたわけだけど。でもそれはある意味真実だね。いろんな人の苦労があって、あるいはいろんな人のさまざまな、まあ犠牲っていったら変だけど、行動があって、で、わたしたちの今の快適な生活が維持されている。あるいは自分たちが修行できることもそうだね。いろんな条件が重なって、いろんな人の動きがあって、われわれは今修行できてると。これをよく考えなきゃいけない。そうすると一見何気なく過ごしてる人も、わたしにとってすごい恩があるのかもしれない。

 で、それを、何度も言うけども、肯定的に考えるんです。ある人がどういう縁によって自分にいい影響を与えているか分かんないよ。まあ日本では、風が吹けば桶屋が儲かるみたいなことわざがあるけども(笑)、ある人の何気ない行動がね、自分の何か相当なプラスになってることっていうのも考えられるんだね。

 逆にいうと、この世の中っていうのは、実は宝物で満ちている。宝物っていうのは、神の愛で満ちている。それをストレートに受け入れられないのは、われわれの無智が原因であって。

 例えば誰かの何気ない一言があったとして、その一言からハッと智慧を得ることもあるかもしれない。でもわれわれの心が狭いと、せっかくのそういうヒントがあっても全く受け入れられない。

 わたしはもちろんそういうことはよくあったね。まあもちろん今もあるけど。例えば普通のね、全然修行してない人とか、あるいは入ったばっかりの生徒さんとかが言った一言。その人はそういうつもりで言ったんじゃないかもしれないけど、それを自分の中でより高い気づきに変えてくとかね。そういうことは当然あるんだね。「あ、なるほど、そういうふうにも考えられる」とかね。自分の方で、それを自分に利益のあるように変えるんだね。

 あるいは、ある人は悪意で自分に何か言ってくるかもしれない。でもそれを、素直にそれを受け取って、それを自分のために変えていくっていうかな。例えばある人が意地悪で自分の欠点を指摘するかもしれない。本当はその欠点って小さいんだけど、「お前、そういうとこが駄目なんだー!」ワー、ワーッて言ってくるかもしれない。でもこっちに謙虚な心があったら、「ありがとうございます」と。「そんなこと言ってくれる人いませんでした」と。ね。「今までいなかったから、あなたが言うまで気づきませんでした」。

 例えばですよ、まあこれは仮の話として、わたしがすごく謙虚な人だったとするよ(笑)、ね。すごく謙虚だと。でもほんの少し傲慢さがあったとするよ。仮の話としてね。で、わたしは例えば謙虚な人だとしたら、みんな「ああ、あの人謙虚ですね。謙虚ですね」って言ってくれる。それを聞いててある人が超妬んで、で、やってきて、「お前! 謙虚だとか言われてるようだけど、お前この間ああいうことやったじゃないか!」と。「お前は傲慢だ!」「お前のその心はプライドだらけだ!」と、ワーッと言ってきたとするよ。それを言われてハッとして、「この人は素晴らしい」と。「わたしの中にほんの少しある傲慢さを指摘してくれた」と。「そうだ、わたしはなんて傲慢だったんだ」と。そこで、「他の人が誰も指摘してくれないこのわずかな傲慢さを指摘してくれたあなたは、なんて貴重な存在なんだ」と(笑)――そういうふうに考えるんだね。

 だって誰も他の人は言ってくれないんだから(笑)、それを言ってくれる存在っていうのは非常に貴重だと。でもそれもそうじゃなくてエゴにとらわれてると、「なんだ、あの人は」と。「あの人は意地悪によってわたしにこんな悪口言ってる」と。「あの人嫌いだ」ってなってしまう。

 だからこちら側に広い心、柔軟な心、肯定的な心があれば、何度も言うけども、この世は宝物で満ちている。あるいは神の愛で満ちている。でもわれわれが固く狭いエゴに満ちた心があると、それを発見できない。すべてが他人のせい、すべてがみんなが悪いんだってなってしまう。ここは重要なところだね。

 だからそういう柔軟な感謝の心を持ってると、いろんな意味でね、本当に小さなことから大きなことまでいろんな意味で、本当にみんな感謝の対象、恩人になるんですね。だからそういう訓練を日々したらいいね。

 もちろんわれわれの智慧のレベルがあるから、気づくところだけでいいです。なんか常に探すんです、そういうところを。で、ちょっとでも気づいたらそれを感謝する。あるいは恩を思うわけだね。

 もう本当にちょっとでもいいんですよ。例えば誰かお茶を持ってきてくれたとか、そんなんでもいい。それを例えば感謝する。あるいは修行で唱える詞章の紙を持ってきてくれた。これも感謝する。すべて感謝する。

 あるいはもう想像でもいい。わたしにはまだ智慧がなくてよく分かんないけど、あなたたちがいるおかげでね、今おそらくわたしは修行できてるんだと思いますと――こういうのでもいいね。これがもう一つの意味だね。

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