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解説「菩薩の生き方」第十七回(4)

 すべての世界において、いかなる人であっても恐怖を持つ人が、すべて私の名を聞くだけで、全くおそれることがなくなりますように。
 人々が、私を見、心に思い、またただ名のみを聞いて、浄信をおこし、乱れることなく、心安らかとなり、必ず完全無欠の覚醒に至る者となりますように。

 はい、これも何度も言ってるヴィヴェーカーナンダの話とか、あとわたしの昔の話とかと同じね。つまり、まさに発願、菩提心の発願ですね。つまりヴィヴェーカーナンダでいうと、「わたしが触れるだけでみんなを解脱させるようになるまで帰らない」って言って放浪修行に出たわけだけど、そういう発願ね。みんながわたしを見るだけで、あるいは思うだけで、名前を聞くだけで、清らかな浄心を起こし、心安らかになり、完全無欠の覚醒に至るようになりたいと。だからこれも単なる「なりますように」っていう願いだけではなくて、当然、決意と考えたらいいね。つまりそのためには当然頑張んなきゃいけない。
 だって、「なりますように」ってそんな、それだけじゃ駄目でしょ(笑)。「わたしがみんなに触れるだけでみんなを悟らせる存在になりますように」――「はい、祈った」って言って(笑)、あと寝てたら、それは駄目ですよね。つまり――だからこれは翻訳の問題もあるんだけど、どちらかというとこれは「そうなるぞ」と、「なります」っていう決意かもしれないね。「わたしは、わたしのことを誰かが見ただけで、思っただけで、触れただけで覚醒してしまうような、あるいは清らかな信に目覚めてしまうような、そこまでの聖なる存在にわたしはなるぞ!」っていう素晴らしい発願ね。
 はい、そしてその前のやつは、今度はもうちょっと柔らかい、つまりこれはまあ、安らぎの布施、無畏施といってもいいけども、つまり解脱とかそれ以前の話で、多くの人々がいろんな意味で苦しんでると、あるいは恐れていると。例えばある人は病に苦しみ、病を恐れてる。ある人は人間関係や、例えば権力者に苦しんだり恐れたりしてるかもしれない。いろんなかたちでこの世の人々は不安を持ち、恐れを持ち、恐怖をし、苦しんでると。で、彼らが――もちろん安らぎの布施、無畏施っていうのはそういった人たちに話をしてあげてね、あるいは話を聞いてあげて、「いや、安心しなさい」と、「大丈夫だよ」と言ってあげるのが無畏施なんですけども、ただ自分のことを思うだけで、みんなが自分のことをふっと心に思うだけで、みんながパーッと安らぐような存在になりたいと。「なるぞ」と。
 当然それには、繰り返すけど、修行が必要だし――ちょっとポイント的にいうと、ものすごい慈愛であふれてなきゃいけないよね。自分の中がほんとに慈愛であふれていて。パーッてすごい慈愛であふれていて。あるいは聖なるエネルギーであふれていて。その場合、それはあり得るかもしれないよね。みんながその人をパッと思い浮かべただけで心がパーッと安らかになると。あるいは不安が消えると。恐怖が消えると。そのような存在にわたしはなるぞという、これも発願ですね。

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