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解説「菩薩の生き方」第六回(5)

【本文】

 極めて重い罪悪をなしても、もしこれ(菩提心)を頼りとすれば、たちまちそれを免れる。あたかも人が勇者に頼って、大危難を免れるように。そこで、どうして迷妄なる衆生によって、(菩提心が)頼りとせられないでよかろうか。

 それはこの宇宙を消滅させる火のように、大いなる罪悪をたちまちに焼き尽くす。これ(菩提心)に対し、無量の賞賛を、聡慧のマイトレーヤが善財童子に説かれた。

【解説】

 過去においてどんな重い罪悪を犯した者であっても、もしその者の心に菩提心が沸き起こり、それを育て、それを人生の柱として生きるなら、「たちまちにして」――それらの罪悪は焼き尽くされるといいます。だからそれを頼りとせよと。
 これはある意味、面白い説き方ですね。菩提心とか慈悲を持つというのは、ややもすると、精神的に余裕のある者のとる道であると受け取られがちです。つまり修行によってある程度の心の安定を得た者が、「よし、衆生も救ってやるか」と(笑)。
 しかしここでは、そうではなく、悪業によって苦しみに沈む者への処方として、「菩提心」が提示されているのです。それこそが、たちまちに君の傷を癒す最高の薬だよと。
 だから、君たちのような、あるいは私たちのような、迷妄と罪悪に悩む者こそ、菩提心を頼りにしないで良いわけがないじゃないかと。そういう強烈な言い方ですね。

 もちろん、念のために言っておきますが、「菩提心を頼りにする」というのは、他人の菩提心をあてにするという意味じゃないですよ(笑)。自分の中に菩提心を育て、それを頼りとするということです。

 ちょっと長いのでいったん切りますが、これも読んだとおりなのでわかりますね。つまり、もう一回言うと、ここに書いてあるように、菩提心っていうのはもちろん、偉大な、カルマの浄化された偉大な者が持つものでもあるんだけども――つまり、「さあ、みんなを救うぞ!」と。例えば一つのケースとしては、ひたすら善を積み、あるいは悪をなさず、っていう清浄な生活を続けてきた人が、だんだんだんだん心が浄化され、で、解脱を果たし、で、解脱を終えたあとに、自分は解脱したけども、みんなが苦しんでるのが耐えられないと。よって、みんなを救わなきゃいけない――これは非常に素晴らしいっていうか、崇高な菩提心だね。
 でも、ここで書かれてるのはそうではない。そのような優れた魂ではなくて、劣った、あるいは悪いカルマをいっぱい積んでしまった悪人に対して、悪人を救う手段として、菩提心が与えられている。
 これはまあ、いつも言ってるトンレンの発想と同じだね。トンレンっていうのは、ヒーラーが、つまりこっち側がトンレンで相手の苦悩を癒すんじゃないんだね。トンレンのやり方を教えることで、その人が癒されると。つまりトンレンをやった人が癒される。これと同じ発想。つまり、例えばここに、そうだな、病気で、かつ心も暗く、エゴで満ちてる人がもしいたとしてね、この人に、なんかエネルギーを入れてあげてもしょうがない。この人に――まあ、しょうがないっていうか、もちろんそれが最善のときはそれでいいんですけども、本質的にはしょうがない。この人の病気を表面上治してあげてもしょうがない。じゃなくて一番いいのは、この人の心をチェンジさせてあげる。この人の心の、例えばエゴの強さっていうのがあるんだとしたら、それを例えばトンレン、あるいは慈悲、菩提心、四無量心っていう考え方によって、違うエッセンスを入れてあげる。これによってその人の心の苦しみは弱まり、心が広がることによって精神的にも非常に幸せになる。で、もし病気の原因がそこにあるとしたならば、それも治っていく。これがまあ、よくチベットとかで行なわれてたといわれてるトンレンの治療法なんだね。
 もう一回言うけども、それを医者がやるわけじゃない。そのやり方を患者に教えるわけだけだね。それによって病気が治ったり、あるいは病気のときの、エゴから来る苦しみとか恐怖とかが和らいだりする。
 これと同じ発想で、この菩提心っていう考え方――つまりもう一回言うと、自分よりも他人の幸福を願い、そのために自分は修行するんだと、仏陀になるんだっていう考え方を、もし持ったなら、その人が悪人だったとしても、その悪業っていうものは、たちまちにしてどんどん消えていくんだと。
 もちろんこの言葉にはトリックがあるのはわかると思う。トリックがあるっていうのは、つまり、そもそも悪人に菩提心が持てるのかっていう問題がある。つまり悪業があるっていうことはカルマが悪いので、実際は菩提心を持つとか、菩提心を、なんていうかな、理解するっていうことができないんじゃないかと。確かにそれはそうなんだね。そうだけども実際には、まあ、なんていうかな、ほんとにまだ心が目覚めてなくて、徳が非常になくて、悪業で固まってる場合はそうかもしれないけども、実際はさ、皆さんもそうだし、あるいは多くの人はそうだけども、いろんなカルマを持ってるわけだね。悪業百パーセントの人っていうのはいない。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』にあるみたいに――カンダタっていう男がいて、彼は非常に大泥棒で悪業ばっかりやってきたけども、蜘蛛の命を助けたことがあると。もちろん実際には、これは物語なのでそういう書き方されてるわけだけど、もちろん実際には、いいところがあったっていうことだと思うんだね。つまり徳もあったと。あるいは心の純粋さもあったと。これがカンダタであったと。そこでお釈迦様はチャンスを与えてね――でもこの物語は失敗しちゃうんだけど。でもこの物語でもいわれてるように、表面上、「あいつは悪人だ」とか、あるいは「おれはすごくカルマが悪いんだ」って言ってる人も、そんな、なんていうか、単純な問題じゃないんだね。うん。百ゼロじゃないから。世の中に悪人と善人しかいないわけじゃないから、一人の心の中にさまざまな悪いカルマとさまざまな善いカルマ、さまざまな清らかな心とさまざまなけがれた心が、いろんな、まだら模様みたいな感じで混在してるわけですね。だからこういう教えが生きてくる。
 つまり、確かにまだ、そのようなカルマがない人も当然いると思うよ。まだ菩提心っていうもの、あるいは菩提心どころか慈悲とかの考え方すら全く受け入れられない人もいると思う。これは前も言ったけど、ちょっと、現実の例としてね、ある、昔ここに通ってた生徒さんが、トンレンの教えがすごく素晴らしいと感動してね、で、まあ、さっき言ったように、チベットとかでやってるように、ある友人が病気で苦しんでいたので、トンレンを教えてあげたっていうんだね。このトンレンをやりなさいと。そうすれば苦しみは和らぐし病気も治るかもしれないって教えたら、怒られたっていうんだね(笑)。つまり、わたしはこんなに苦しいのに、この苦しみをもっと来いとかね、自分の安らぎをほかに行けなんて思えると思いますか?と。なんでわたしにそんなこと言うんですかと。そんなことわたしやりたくないと、怒られたっていうんだね。でも、そういうケースは確かにあるかもしれない。これも、わたし個人も経験があるけど――まあ、無料体験とかは最近はインストラクターがやってますけど、昔、わたしが全部やってたときにね、トンレンを結構やらせるわけだけど、中にはまあ、少ないけどもね、少ないけども、何人かの人は拒否するんです(笑)。できませんって言うんだね。まあ、「できません」と言ったり、あるいは終わったあとに「できませんでした」って言ったりする。ちょっとこれはちょっと駄目だ、わたしこれはできませんでしたと。どうしてもそういうふうに思えないと。うん。つまり、なんていうか、その素晴らしさがわかってるけどできないじゃなくて、全くまず理解できない。もちろんその人も今そうなだけで、今生のうちにまた目覚めることがあるかもしれないけど、でもそのように、まだ準備ができてない人もいるかもしれない。
 でもそうじゃなくて、たまたまっていうかな、多くの悪業を背負い込んではいるが、実際には真理と縁があり、あるいは実際には目覚めた心もあり、実際には過去世のいろんな経験もあり、実際には目覚められる人もたくさんいるんだね。うん。こういう人は、そのような菩提心っていうものをもししっかりと心に抱き、で、本気でそれを志したなら――本気でっていうのは、ちょっと、ああ、いいなって思うんじゃなくて、あるいはちょっと、やっぱり愛もいいな、慈悲もいいなって考えるんじゃなくて――ここで言ってるのはね。菩提心をしっかりと発願すると。つまり、「よし、わたしはほんとに今生悪いことばっかりやってきたが、これからは、今この瞬間からは、みんなのためだけに生きるぞ」と。「そのために修行するぞ」と。「そのためにこの人生を使うぞ」と。「わたしは今まで多くの悪しき心の結果として、多くの人を傷付けてきた」と。「多くの人を不幸にしてきた」と。「それは本当に申し訳なかった」と。「しかしわたしは、グルの、あるいは仏陀の慈悲により、今生もこのダルマに出合えた」と。「よし、この瞬間から、今この瞬間から、みんなの幸福のためだけに生きる」と。「そのためにわたしの人生を使う」と。で、それはさっき言ったような、ただの希望的観測ではなく、そのために人生を使うイコール、一分一秒も惜しまず全力で修行するぞと。このような決意をその人が持った瞬間から、たちまちにして悪業は消えていくと。
 もちろんこれは、そうだな、つまり、マジックのようにフワーッと消えるわけではない。もちろんそういうのもあるかもしれないよ。この世っていうのはほんとに不思議だから。実際それもあるかもしれない。しかし、ここで言ってるのは、ベーシックにはそういう話ではなくて、結局は、われわれが悪業を積み、それで苦しみ、さらに悪業をなしっていうことを、ずーっとそこから抜けられずに繰り返すのは、われわれの心のベクトル、方向性の問題なんだね。われわれは実は幸せになりたいと言いながらどんどん魔の世界、地獄の世界に向かってるんです。じゃなくてわれわれのベクトルが、ベクトルさえ――だからいつも言うように、一番大事なのはベクトルなんです。ベクトルさえ、菩提心、自分はどうでもいいからみんなを救いたいっていう気持ち、まあもしくは、もちろんこれにバクティも加わってもいいよ。神のしもべになりたいんだっていう気持ち。わたしの人生それだけでいいんだっていう気持ち、こっちにベクトルがグッと向いたならば、あとは、さっきの一向楽の話と同じように、あとはどんどん悪業は落ち、心は浄化され、自分も至福が増し、そして偉大な菩薩になっていく道しかないんだね。
 で、このスピードは、まさにたちまちにして、どんどん悪業は落ちていくんだと。だからそういう意味ではわれわれもね、皆さんも、反省しなきゃいけない。例えば自分が修行の道に入ったと。しかし、もちろんいろんなかたちで修行が進んでね、いろんなかたちでのカルマも浄化されたように思えるけども、でも、たちまちにどんどんいろんな心が、いろんな悪がなくなってるようには思えないなあって思うとしたら、つまりそれだけまだ決意が足りないんです。心のベクトルがまだ弱いんだね。覚悟が足りないっていうかな。だからまさに、いつも言ってるけど修行者にとって第一に大切なのは、ラーマクリシュナは渇望と言ってるけども、もっと言うならば覚悟です。覚悟。だからあの「神のしもべに」の歌にあるような覚悟ですね。「完全にもうわたしはこれで行きます」っていう覚悟ね。
 今生、何度も言うけども、出合う前はしょうがない。皆さんがこの菩提心の教えや真理のダルマっていうものに出合う前のことは、もうしょうがないじゃないですか。それは当たり前でしょ。だって、わたしもそうだけどさ、皆さんも――わたしもさ、いつも言うように、手さぐりでもちろん生きてきた。手さぐりでっていうのは、子供のころから、小っちゃいころから、なぜ人って生まれたんだろうとか、そういう純粋な疑問はいっぱいあったわけだね。真理とはいったいなんなんだろうとかね。でも、よくわからない。よくわからないから手さぐりで生きるしかないよね(笑)。手さぐりで生きて、流されつつ生きて。で、その人のカルマによって、ある時点で真理に巡り合うわけですけども。その巡り合う前の、よくわからないで手さぐりで生きてやっちゃったいろんなこと、これはもうしょうがないじゃないですか(笑)。しょうがない。それはもう許してあげてください。自分のことだけど(笑)。しょうがないですよ、もう。わたしももちろん、いろんな人の懺悔とかね、いろんなこと聞いてきたけど、もう、もうとんでもない人いっぱいいる(笑)。とんでもない人いっぱいいるけど、しょうがないじゃないですか、それ(笑)。知らなかったんだから。だからそれはもういいんだけど、でもこの出合った瞬間からはもう違う。出合ったからには、わたしは愚か者ではないと。出合ったからには、このチャンスを十二分に生かさなきゃいけないと。うん。そう考えて、そこに、まあ、投げ出すっていうか、覚悟を決めるっていうか。皆さんの場合はそれが、今日学んでる菩提心の道であり、あるいはバクティヨーガの道ね――になるわけだね。
 もちろん、修行っていうかな、真理の方向性っていうのはいろんなものがあるから、もちろん、ここじゃなくてね、いろんな別の教えと縁がある人はそれはそれでかまわないけど、ただまあ皆さんにわたしが勧めるのはこのバクティの道と菩提心の道ね。これに完全に――ね、今この瞬間からでもいいよ。まだ自分は甘かったなって思う人は、今この瞬間からでも決意を固めるっていうかな、覚悟を固めると。この瞬間からのちは、ただそれだけのために生きると。それを皆さんが決心したならば、皆さんが過去に積んだ悪業や心のけがれっていうのは、たちまちにしてどんどん浄化されていくんだっていうことですね。

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