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解説「菩薩の生き方」第八回(6)

 はい、次に欲求ってあるけども、もちろんここでいう欲求っていうのは、正しい志、正しい決意っていうことですね。そして、そのより発展形として精進がある。努力ね。つまり欲求が本当だったら当然努力するから。欲求、正しい欲求を持ち、正しい努力をすると。
 で、これもね、非常に大事なんです。これもね、別パターンとしていうと、縁はあって徳もあるが、しかし正しい欲求っていうか志がない場合――これはいろんなパターンがあるけども、例えば偉大な聖者の非常に近くで、まあ例えば、そうですね、侍者として働いたりとか、聖者のお世話をする環境に恵まれるけども、でも本人は修行しないとか、あるいは本人はあまり真理に気付けないっていう場合があるんだね。この場合はその聖者とは縁があったんだけど、心の、魂の正しい渇望、正しい欲求が少なかったがために、単なる社会的なっていうか人間的な縁だけで終わってしまう場合がある。
 あるいはね、もちろんいろんな微細なパターンもあるよ。例えばさ、いい例かどうか分かんないけどちょっと特殊な例として言うと、ラーマクリシュナの侍者だったフリドエっていう人いますよね。これは『ラーマクリシュナの福音』とかよく読んでる人は分かると思うけど、ラーマクリシュナの思い出話としてよくフリドエっていうのが出てくる。フリドエとかフリダイとか、ちょっと発音はいろいろあるけども。このフリドエっていう人は、ラーマクリシュナの初期のころに侍者として大変尽くしてくれた人なんだね。で、侍者として、まあ、この人はラーマクリシュナの親戚、甥っ子だったかな――親戚の人で、で、つまり縁があったから、ラーマクリシュナのまだ初期のころにね、まだ縁ある弟子たちが集まっていないころに、一番近くでもう何から何までラーマクリシュナの面倒を見ると。そういう素晴らしい恩恵を授かったわけだね。で、このフリドエ自体もラーマクリシュナのことが非常に好きだった。好きっていうかな、もちろん信仰もしていただろうけど、ただ師匠っていうよりは、まあ非常に好きだったんだね。好きで尽くしていたと。で、ほんとにもう、小さな望みまで一生懸命頑張って努力してね、叶えようとしていた。まあ、そういう意味では素晴らしい侍者だったんだね。
 で、修行もしなかったわけではない。一時期修行に燃えて修行ばっかりしてたときもあって。で、そのときは逆にラーマクリシュナとか、あるいは周りのね、同じくラーマクリシュナの初期からの信者だったモトゥルっていう人がいたわけだけど、こういう人たちとかに言われたのはね、「おまえは今生は師に、つまり大聖者ラーマクリシュナに仕えるっていう大変な恩恵をあずかってる」と。で、「ただそれに純粋に没頭するだけでおまえは最高の境地を得られるのに、なぜそれをしないで、一人で座って修行してるんだ」と。ね。つまり観念があったわけだね。修行っていうのはそうやって瞑想して、あるいはいろんな儀式を行なって、とかいう観念があったわけだけど、「おまえの今生の修行はそうではない」と。「そうじゃなくて、ただひたすら師のために尽くせば、それがおまえの解脱につながる」って言われるわけだね。で、そこでそのフリドエはある一時期修行に邁進してたときもあったんだけど、あるときからまた奉仕行を頑張ると。
 だからそれだけ見たら、素晴らしい縁があり徳もあった。で、欲求もあったんだろうけど、でもあるときからちょっと狂いだす。狂いだすっていうのは、これはある時期から――これもよくラーマクリシュナが思い出話として言ってるわけだけど、いろんなひどいことをラーマクリシュナに言うようになったっていうんだね。いろんな悪態をついたりとか、ラーマクリシュナの心を苦しめるようなことをいっぱい言ったと。ひどい状況にラーマクリシュナを追い込んで、まあ、これも本心かどうか分かんないけど、リーラーでしょうけど、ラーマクリシュナはあまりにもフリドエにひどいことを言われて、「何度も自殺しようと思った」って(笑)。それはほんとかな?っていう気がするけど(笑)。でもそれだけひどいことを言われたと。で、そういうのが続いたと。で、おそらくそのカルマによってだろうけど、あるとき、ほんとにそれはちょっとした不注意だったんだろうけど――ちょっと簡潔に言うと、ラーマクリシュナはカーリー寺院の神主みたいな人で、で、その身の回りの世話をする者としてフリドエも雇われていたわけですね。で、もともとはこのカーリー寺院っていうのはラーニー・ラースマニっていうお金持ちの女性の持ち物で、で、その娘婿であったモトゥルっていう人が一応まあ管理をしていたわけですね。で、このモトゥルっていう人はラーマクリシュナの大変な信者であって。で、フリドエとも仲が良かったと。で、このモトゥルが死んでしまったんだね。死んでしまって、別の人がカーリー寺院を管理するようになったんだけども、そのカーリー寺院の新しい管理者の娘に対して、このフリドエが礼拝したんだったかな――なんか礼拝のしぐさとかをしたと。それはなんとなくしたのかもしれない。でもそれがヒンドゥー教においては大変な凶兆というか、凶、つまり大変な不吉な行為だったらしいんだね。別にフリドエは悪気があったんじゃなかったと思うんだけども、そのような不吉な行為をしてしまったために、その管理人が非常に怒っちゃって、で、フリドエを追放してしまったんだね。
 もともと、ラーマクリシュナが自分の弟子として置いてたわけじゃなくて、神の意によって、寺院に雇われてるっていうかたちでそばでお仕えしてたわけだけど、でもカルマ的にいうと、今言ったように、後半、ラーマクリシュナをいじめてしまったために、本来はすべての愛を捧げ、自分が完全にしもべにならなきゃいけなかったのに、ラーマクリシュナを苦しめてしまったために、おそらくそこでまあ、縁が切れてしまって、追放されてしまったんだろうね。
 もちろんそれもすべてラーマクリシュナの計画内といえばそうなんだけど、社会的な意味ではラーマクリシュナはカーリー寺院の雇われ僧であって、で、カルマ的に集まってきた者たちに教えを説いてたわけだけから、その輪から外されてしまったんだね。もちろんラーマクリシュナが外したわけじゃなくて、社会的な意味で外されてしまい、で、そのあともあまり関わらなくなってしまった。
 これは非常に微妙な問題なんです。何が微妙な問題かっていうと、例えば今言ったフリドエの前半においては、さっき言ったようにラーマクリシュナにすごい愛があって尽くしていたと。で、実際に、ある程度の高い欲求もあった。しかしちょっとずれていったっていうのは、多分やっぱりずれがあったんでしょうね。ずれがあったっていうのは、いろんな伝記とか見ると、フリドエ自体は多分、自分が考える意味での解脱とかには欲求があったらしい。しかし本当の意味で、多分、目の前にいらっしゃるラーマクリシュナに自分を捧げてはいなかった。あるいはそこに捧げることが、なんていうかな、ほんとに自分の利益だっていうことが分かってなかったんでしょうね。だからおそらく今の話の流れでいうと、その欲求の方向性が多分ちょっとずれていた。だから例えば本来自分にとって最高の存在であるはずのラーマクリシュナに対してひどいことを言ったりとか、いろんなことをするようになってしまった。で、こうやって彼の人生がちょっと狂っていったんだね。で、最終的にはちょっとはじき飛ばされるようになってしまうっていうか。
 だからこれはちょっと、今の流れで言うと、素晴らしい縁があり徳もあったから、人間として生まれ、大聖者ラーマクリシュナの侍者になるっていうポジションを得たにも関わらず、正しい――もう一回言うよ――今の場合は全く間違ってたわけじゃなくて、微妙な間違いによって、正しい欲求の方向性、正しい志、正しい努力から少しずれてしまった。それによって、なんていうかな、今生ある数年間、ラーマクリシュナのもとで徳を積ませてもらったっていうメリットはあったけども、しかし、そこでずっとね、偉大な師のもとで奉仕をし、で、一緒に修行できるほどのカルマはなかったと。
 実際フリドエはそこから追放されたあとも、その役職は解かれたけども別にそのまま弟子として通って教えを受けてればそれはそれで良かったはずなんだけど、でもそれはしなかったんだね。そのままそのラーマクリシュナの物語から消えてしまう。で、晩年とかにたまに出てきて、経済的に困っていて、「なんとか助けてもらえませんか」とかいう感じで現われたりする。だからこれは完全に彼の微妙な間違いからくる、大変な人生の過ちです。前半の――もう一回言うけども、ラーマクリシュナに尽くしていたときにほんとに純粋に自分を投げ出して尽くせていたら、素晴らしい今生のメリットを得ていたに違いないんだけども、でもおそらくまあ、あまり資料がない人なので分かんないけども、いろんなわずかな資料とか見ると、傲慢さによって、あるいは自分の考えに対する固執によって、あるいは自分の中にあるそういった攻撃性への、まあ、甘さによって、カルマがちょっと変わっちゃったんだろうね。
 はい。これはちょっと特殊な例ですけどね。だから、縁があって徳があった、それによって聖者のそばで修行したり奉仕ができるっていう環境にあったとしても、正しい欲求、正しい志、そしてそこからくる正しい努力がなかったら、やっぱり外れてしまう可能性もある。
 よって、もちろん正しい欲求や志の背景には、教学が必要だよね。まずは教えを学んで、で、自分の心にそれを植え付けると。あるいはもちろん皆さんの場合、さっきから言ってるように、過去世から持ってきてるバクティ、あるいは菩提心に通じるような正しい志っていうのはあるだろうから、それを決して忘れないようにして、わたしは絶対菩薩になるんだと、あるいは絶対に神のしもべとして、ひたすらね、何度も転生しながら、神の道具としてだけ生きるんだと、このような思いを決して忘れないようにすると。
 で、何度も言うけども、フリドエじゃないけども、そのちょっとしたわれわれの傲慢さ、あるいはちょっとしたわれわれの心の緩みによって、どんどん気付かぬうちにその欲求の方向性が変わってくる。で、それはいつも言うようにエゴっていうのは詐欺的なので、自分でもよく分からないうちにちょっと変えられてしまうんだね。ちょっとずつちょっとずつ微妙に微妙に――だって表面上は修行してる。表面上は奉仕してるように見える。さっきのフリドエみたいにね。しかし表面はそう見えてても、内側の自分の志、欲求、渇仰の方向性が最初とどんどんずれていったら、やっぱりそれはカルマの流れがずれてしまうんだね。

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