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解説「菩薩の生き方」第五回(8)

◎菩薩の誇り

 ただ、もう一回言うけども、皆さんはそれを持続するための誇りが弱過ぎる。あえて言ったけど、これは誇りです。カルマが悪いんじゃない。誇りが弱いんです。カルマが悪いとか悟りが足りないとかそういうんじゃなくて、気持ちの問題。まあ気持ちの問題って言ってしまうとほんとにもう終わっちゃうんだけど(笑)。誇りが足りない。「わたしは菩薩なんだ」っていう気概っていうかな。それを一生持ち続けるんだと。その思いがあれば、それは持続する。で、それがその持続によって、その世界に慣れてくるっていうか、その世界がだんだん皆さんの中で確定してくるんだね。
 はい。だから、もう一回ちょっと重要点を言うよ。一瞬でも、一度でもかまわない。もし皆さんが、「菩薩になりたい」――この気持ちを持ったら、皆さんは菩薩です。その瞬間から、もう皆さんは、言ってみればブッダの一族の、つまりその救済の一族の末席に名を連ねています。
 まあだからこれもシャーンティデーヴァの言い方で――もう恥ずかしいことはできません。もう「汚点が付く」っていう言い方をしてるよね。こういう考え方も大事ですね。この間までは良かったけども、もう皆さん菩提心持っちゃったから、もう救済の一族の末席に名を連ねてますと。それはブッダの一族でもいいし、あるいはまあ、ね、いろんな言い方でいいよ。ラーマとかクリシュナとか、つまり至高者の一族でもかまわない。その一族に名を連ねたと。ここで皆さんがもし変な生き方をするならば、あるいは変な心を持つならば、それは、まさに親分である、ブッダ様やラーマ様やクリシュナ様やシヴァ様に恥をかかせることになる。それはわたしはできない、っていう思いを持たなきゃいけないんだね。そういう意味での気高さ。
 あまり例を挙げられないけど、いつもなんかヤクザとかの話になっちゃうんだけどね(笑)。現代のヤクザってどういうヤクザか知らないけどさ、昔のよくヤクザ映画とかヤクザ漫画とかに出てくるような男気のあるヤクザの社会があったとしてね。「うちの親分をわたしは心から尊敬してる」と。「あの人は男である」と。「わたしはその末端の組織に加えてもらったチンピラにすぎないが、決してうちの親分の顔に泥を塗るような生き方だけはできねえんでございます」と。

(一同笑)

 できねえんでございますって、いつの時代だ?っていう(笑)。でもイメージとしてはそういう感じね。「できねえんでございます」と。「わたしはもうほんとにどうしようもないチンピラでございますが、うちの親分の顔に泥を塗る真似だけはできません」、というぐらいの気概だね。だから皆さんがカルマ悪かろうが、過去に何やっていようがそんなことはかまわない。菩薩の一群に、末席に名を連ねた段階で、そのような気概っていうか、誇りみたいなものを持たなきゃいけないんだね。で、それを一つの自分の支えとするっていうか。だからわたしは頑張れるし、もうやるしかないっていうか。その気持ちが心に根付いてたらっていうか、それを日々考えると。忘れないようにすると。それが皆さんを、結果的にだけどね、結果的に――ちょっと話を戻すと――結果的に皆さんの苦しみはそれによって減っていくし、幸福は増えていくし、そして結果的に皆さんの縁ある人々も救われていくと。

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