解説「菩薩の生き方」第五回(5)
◎何よりも優先されるもの
はい。で、やっと本文に戻りますが(笑)。だから今言ったような話を前提として、基本として考えてください。
「あまたの生存の苦を超えようと願い、衆生の悩みを除こうと願い、数多くの安楽を受けようと願う人々は、菩提心を常に放ち捨ててはならぬ。」
はい。で、それはここに書いてあるように「あまたの生存の苦を超えようと願い、衆生の悩みを除こうと願い、数多くの安楽を受けようと願い」って書いてありますが、つまりそれだけの実際の、まあ実利的なっていうかな、現実的な効果がこの菩提心を持つことにあるんだっていうことですね。
ここでは三つだけ挙げられてるわけですが、まず「生存の苦しみを」――まあ、これは自分の話ですね。自分のこの輪廻における苦しみを超えると。
それから、「衆生の悩みを除く」――つまり衆生を救済すると。そして、「数多くの安楽を受けようと願う」と。
はい。これはもちろんちょっとギブアンドテイク的な感じで書かれてるけども、いい意味でのギブアンドテイクですね。つまり、もう一回ここの言葉を簡潔に言うと、皆さんが本気で菩提心を持つならば、その菩提心の力が、皆さんの――いいですか――いつも言うように、その菩提心を持った人自身の苦悩をどんどん消していきます。これは菩提心の前提である慈悲ももちろんそうなんですけどね。慈悲の心とか四無量心を持つと、もちろん四無量心自体はみんなのためのものだけど、現実的には――トンレンとかもそうですけどね――そのような菩提心や慈悲の心を持った人自身が、どんどん苦悩が減っていく。で、逆に安楽というか安らぎというか至福がどんどん増えていくと。そして当然、その菩提心の狙いである、衆生を救うための力もどんどん付いてくるわけだから、縁ある衆生もどんどん救われていくと。もういいことづくめだね。
もう一回言いますよ。菩提心を皆さんが修習するならば、皆さんの苦悩は減り、喜びは増え、みんなは救われると。なんでやらないんだ、っていう話なんだね。で、これはほんとに、実利的っていうか現実的な話だと思ってください。つまり皆さんにとって、皆さんを苦悩から救い、喜びを与え、そして皆さんと縁のある者を救うのが菩提心なんだよと。
で、これは、何度も言うように、実利的っていうかシステム的なものだと考えてもいい。システム的に菩提心っていうのはその役割を担うんですよと。人間の心っていろんな形態を取るけども、皆さんの心が菩提心っていう形態を取ったときに、今言った、苦悩の除去と、幸福の増大と、そしてみんなの周りの者が救われるっていうことが、非常に劇的に行なわれるようになります。で、それを、言ってみれば、ちょっと高いところから、あるいは外から見てる、まあ、この偉大なる大聖者であるシャーンティデーヴァが、ある意味われわれにアドヴァイスしてくれてるわけですね。まあ、もちろんこれは、シャーンティデーヴァの言葉を借りて、ブッダ方、菩薩方がアドバイスしてくれてると言ってもいい。
つまり、もう一回言うけども、われわれは迷妄の中にいる。迷妄の中にいて、ほんとに何が正しいのか、何が幸せになるのか、何が苦悩に落とすのかが、全くわからない状態でいると。で、それに対して智慧ある者たちはバッと言ってくれてるわけです。それだと。菩提心だと。ね。あなたは無智だからよくわかってないけども、絶対それだけは離すなと。
これは何度もいろんな例えで言ってるけどさ、つまり、そういう感覚があるんだね。われわれは無智に――例えばこれはスポーツでもいいし、あるいは子供のお使いでもいいけども、やってることの意味がよくわかんなくてやってる人がいる場合ね。で、それを外から見てよくわかってる人がいた場合は、「それだけは絶対離しちゃ駄目だよ」ってあるよね。「ちょっとあなた、なんか今だいぶボロボロになっちゃってるけど、それだけは離すなよ」と。「それだけがあなたの命綱だから絶対それだけは離すなよ」と。「あなたは今何やってるのかさえもよく自分でわかってないかもしれないが、それだけは絶対離しちゃいけないよ」――あるよね。これが菩提心なんだね。これが、だからブッダとか菩薩から見るとそう見える。それだけは絶対離すなと。
だから別にこれは理想的な一つの思想を、「こういうのもあるけどやったらいいんじゃない?」っていうことを言ってるわけじゃなくて、もう一回言うけども、それだけは絶対離してはいけないっていう肝を、この世の仕組みや心の仕組みをわかってる菩薩やブッダ方がわれわれにボンと教えてくれてる、これが菩提心なんだね。
だからさっきから言ってるように、もちろんそのレベルの違いによりそれはバクティとかにも昇華されるわけだけど、このバクティの気持ちや菩提心っていうものは、繰り返すけども、すべてに優先される。あるいはすべてに、なんていうかな、打ち勝つ、自分の中の最高の、あるいは最大限守り通さなきゃいけないものなんだっていうことですね。
逆に言うと、守り通さなきゃいけないっていうのは、ほかのものは犠牲になってもかまわない。何を犠牲にしても、この菩提心と、それから神への純粋な信だけは、絶対に外してはいけないという話ですね。
極論すれば、それを捨てるくらいだったら死んだ方がいい。これは極論ですけどね。例えばインドの仏教徒を攻めたイスラム教、あるいはチベットを攻めた中国共産党みたいに、「菩提心を捨てなければ殺すぞ」と言われるとか、そういう場面っていうのはなかなかないかもしれないけど。もちろん社会情勢なんて何がどうなるかわからないから。皆さんがちょっと悪い時代に生まれて、もしそういう状況が訪れたとしたらね、それはもう死を選んだ方がいいというくらいに、菩提心あるいは神への純粋な信っていうのはね、何よりも優先されるんだと。
はい。で、それをここでは――ほんとはこれはね、理由とかいうのはないんです、ほんとは。菩提心が最高であり、菩提心だけは離すなっていうことには、実は理由はない。そうだからそうだとしか言いようがないっていうか。でもわれわれの心は、エゴっていうのは――われわれはさ、教えを学んでても、今はエゴがベースです。だから教えっていうのはさ、そういう意味では、エゴをちょっとだましながら、あるいはエゴと交渉しながら、自分の心を鼓舞するようなところがあるんですね。だからここもそういう感じだね。つまり、まだ自分の幸福を求めてるエゴに対して、「いや、菩提心って別に、自己犠牲の道ではあるけども、ほんとは違うんだよ」と。ちょっと変な交渉ですけどね。「いや、ちょっと違うんだ」と。「菩提心ってなんか自己犠牲、自己犠牲とか言ってるけども、ほんとは自分が一番幸せになるんだよ」と。「ほんとはあなたの苦悩も実はそれで消えるんだよ」と、自分のエゴに言うわけだね。そしてそれプラスもちろん、周りの者も一番早く救われると。それがわれわれが菩提心をどんどん強めていく、あるいはそれを決して離さないっていうことによって成されるんだっていうことですね。
はい。で、まさにこれも一つの鍵の言葉ですね。鍵の言葉っていうのは、例えばかっこ良く書かれてる、「決して菩提心を常に放ち捨ててはならぬ」と。これも、何度も言うけども、心に刻み込んでください。だからほんとに記憶喪失になったとしても、それだけは絶対に捨てないようになってください。もうほんとに、冗談みたいに言うと、頭が記憶喪失になってね、記憶喪失になって、例えば誰かがやって来て、「あなた、記憶喪失になる前になんか修行とかしてたみたいだけど」――例えば誰か、ちょっとカルマ悪い人がやって来てね、「あんなヨーガとか仏教とか、そういうのは全部まやかしだから、あなたせっかく記憶喪失になったからもうやめた方がいいよ」と言われたとしてもね。あるいは「あなたの教わってるところではなんか菩薩がどうとか言ってたみたいだけど、そんなのまやかしだからやめた方がいいよ」って言われたとしても――例えばそこで、ちょっとだまされるような感じで言われたとしてね、その場合例えば――ちょっと極論するよ。極論すると、解脱は忘れてもいい。つまり「解脱なんて」って言われたら、「ああ解脱……まあ、じゃあいいか」って思ってもいいけども(笑)、「菩提心を捨てろ」って例えば言われたとしても、心の何かがブロックし、「うっ、それよくわからないけど捨てられないんです!」というくらいになってほしいね。それくらいに、なんていうかな、心に刻み込む。菩提心だけは絶対に捨てられないと。もちろんもう一つは神への信ね。神への信だけは絶対に捨てられないんだと。それくらいに心に刻み込むんだね。
はい。もちろんそのための努力はいろいろ工夫して皆さん日々やらなきゃいけないよ。もちろんさっき言ったような教学から始まって、あるいは普段からそういうことを考えるでもいい。わたしの中心的な生きる意味っていうのは、神へのバクティと、それから菩提心しかないんだと。こういうことを普段から考えるでもいい。あるいは実際に、もちろんそれを強めるためのね、さまざまな作業、そして逆にそれを弱めてるエゴであるとか、その障害となってるさまざまな自分のけがれをどんどん除く作業ももちろん日々やりながらね、自分の心にこの菩提心、あるいはバクティっていうものの重要性っていうよりは、それしかないんだっていう気持ちを強く刻み込むことに努力したらいいと思いますね。
-
前の記事
解説「菩薩の生き方」第五回(4) -
次の記事
解説「菩薩の生き方」第五回(6)