解説「菩薩の生き方」第二十四回(3)

【本文】
私の所有物は、欲するままに滅ぶも良い。尊敬も、身も、命も、滅ぶなら滅べ。
ただし「善き心」はいかなるときにも滅びてはならない。
心を守ろうと願う人々に、私は合掌をささげる。
「念と正智を、全力を挙げて守れ」と。
病に悩める人がすべての行為に不適当であるように、この念と正智の両者を欠くときは、心はすべての行為において為すに値しない。
その人の心に正智がなければ、教えを聞くこと、考えること、瞑想することは、穴の開いた瓶から水が漏れるように、念(スムリティ)としてとどまらない。
多くの教えを聞き、信仰を持ち、努力に専心しても、正智を欠くという過ちのために、人々は罪に汚されたものとなる。
【解説】
財産も地位も名誉も、本来あまり価値のあるものではありません。それらは本質ではなく、無常であり、二次的なものに過ぎません。
しかし心というのはすべてを生み出す土台となるものですから、それが善い状態であるか悪い状態であるかによって、すべてが決まってしまいます。目に見えるすべてのものは、そのつじつま合わせのようなものです。「いかに善い心を保ち続けるか」、それがすべてなのです。
念と正智というのはいろいろな説明ができますが、ここで語られている念と正智とは、次のように簡単に定義できるでしょう。
念・・・正しい思いを心に植えつけ、保ち続けること
正智・・・心を明瞭に保ち、心が悪しき状態に流れないか、正しい念を保ち続けているかチェックし続けること。
いかに多くの教えを学び、それについて考え、そして瞑想をしたとしても、日々、正智という監視作用によって自己の心が見守られていなければ、結局、その教えは心に念として根付くことなく、悪しき心の状態へと流されていきます。
はい。まあ、ここも、有名なっていうかな、とてもまあ、かっこいい場所ですけども――「私の所有物は、欲するままに滅ぶも良い。尊敬も、身も、命も、滅ぶなら滅べ」と。
まあ、というよりも、この世のものはすべて無常であると。すべて滅んでいくと。そんなものは執着してもなんの意味もない。しかもそれらは、ね、ここにもあったように、本質的な価値がないと。だからわたしはそんなものに執着しませんよと。滅ぶなら滅びなさいと。
まず所有物なんてものは当然、ね、滅ぶなら滅べと。あるいは、消えるなら消えろと。仮に自分が今お金持ちだったとしても、あるいは大きな家に住み多くの所有物があったとしても――何度も言うように、われわれはさ、この物質的な充満の国である日本で今生きてて、一般的にいってっていうかさ、普通に生きてたら、貧しい国の人々に比べたら多くの物質的な恩恵を受けてると。でも別にそれをサードゥみたいに放棄する必要はない。それが今のわれわれのカルマですから。放棄する必要はないが、もちろん一切とらわれてもいけないと。仮に、ね、ある程度の家に住み、例えば車を持ち、あるいはある程度の家具を持ち、あるいはお金ももちろんありっていう状況にあって、それがなんらかの事情で明日いきなりすべてが失われたとしても、それはなんの問題もないと。そのような無執着の心ね。
はい。そして「尊敬」ってあるけども、つまり概念的な、つまり物質ではなくて概念的な、自分がみんなから尊敬されてるとか、あるいは愛されてるとか、そんなものにも執着しないと。それはすべて無常ですからね。今皆さんがいいカルマがあって多くの人から尊敬されていたとしても――それは例えばニュースとか見るとわかりますよね。いろんなパターンで、すごく尊敬されてた人が、ちょっとした過ちや事件によって、もう徹底的に叩かれると。こういうことはよくありますよね。それは小さな、ね、周りの社会でもよくあることで。で、そんなことがあったとしてもそれはなんの問題もないと。もちろん自分がしっかりと正しい道を歩んでいればですよ。自分が悪いことをやって尊敬がなくなったら、それはちゃんと改善しなきゃいけないけども(笑)。じゃなくて正しい道を歩んでて、いろんな誤解やカルマによって、ね、みんなが自分を蔑んだとしても、なんの問題もないと。
はい。同様に、「身も、命も、滅ぶなら滅べ」と。つまり体が滅ぶ、あるいは命を失うっていうことがあったとしても、それがカルマであり、グルの、あるいは至高者のご意思ならば、なんの問題もないと。しかし一つだけわれわれが全力で守らなきゃいけないものがあるんだと。それがさっきから言ってる正しい心であり、そしてその正しい心を守る実践としての念と正智であると。
この念と正智っていうのが、ここに説明されてるように――これはいつも言ってることですけどね、「念・・・正しい思いを心に植え付け、保ち続ける」と。そして正智が、「心を明瞭に保ち、心が悪しき状態に流れないか、正しい念を保ち続けているかチェックし続ける」と。
これを、なんていうか、仏教的なこの教えを英語に訳すときに、念イコール・マインドフルネス、正智イコール・アウェアネスっていうふうに訳したんですね。で、それがまあ現代でいろんな解釈、意味を持っていろいろ説かれてるけども、実際にこの念と正智も、意味自体、非常に広いことは広い。ただ、最も大事なっていうか、ここでいってる念と正智は、ここに書いてあるように、まず最初の念は、「正しい思いを心に植えつけ、保ち続ける」と。
これはいつも言ってるように、単純にね、現代でよくいわれるように、自分の心に常に気付き続けるとかね、自分の肉体や心の状況をしっかりと自覚し続けるとか、単純にそういうことでは駄目です。つまり、まずはダルマが必要です。教えが必要です。で、教えのインプットが必要です。だってインプットがなければ何を念ずるんだと。何を正智するんだっていうことになるよね、まずはね。まずはちゃんと教えを学び、インプットして、で、その教えにのっとった心の正しい状態、これを、言ってみればキープし続ける、あるいは集中し続けると。これが念だね。
そしてそれがちゃんとできてるかどうかを、アウェアネス、つまり覚醒したはっきりとした意識によって監視し続けると。このアウェアネスを例えば、現代的によく、非常に曖昧な感じで「気付き」とかいいますよね。「気付き」ってなんかみんな好きですよね、スピリチュアルの人とかね。なんか「気付きが」とか言うわけだけど、曖昧ですよね(笑)。気付きって言われたって、確かになんかちょっとソフトな悟りのような感じがして、なんか真理に気付いたみたいな、そういう雰囲気があるかもしれないけども、でもここでいってる正智っていうのはそんな曖昧なもんじゃない。繰り返すけど、はっきりした意識を持ち続け、つまり自覚の意識を持ち続けて――で、それだけでも駄目です。つまりよく言うように、はっきりと「わたしは今ものを食べてる」とかね、あるいは「歩いてる」とかさ、これはつまり、自覚がない状態、ボーッとした状態だと悪いことをやっちゃうと。そのためにまずは自覚を持ちましょうと。これはオッケーなんだけど、みんなここで終わってるんだね。うん。つまりボーッとしてなんか悪いことしちゃったと。ボーッとして変なことばっかり考えてると。まずはボーッとするのをやめろと。自覚しろと。ここまではオッケーなんだけど、この先が、現代の教えにはない。自覚してその先どうするんだと。つまりその自覚した意識で、自分の心が今どうなってるかを常に自覚し続けると。そして、変だったら修正すると。で、繰り返すけど、どう修正するんだっていうのは、当然、教えがまずなきゃいけないわけだね。つまり念、念のインプットがなきゃいけないわけです。で、そのインプットされた、教えに基づいた自分の心の理想的な状態を保ち続ける。これが念であり、そしてそれを保っていられてるかどうかを常にチェック、覚醒した意識でチェックし続け、駄目だったらすぐに戻すと。あるいは修正すると。これが正智だっていうことだね。
はい。この念と正智を全力をあげて守れと。そのように心を守ろうとする者に、このシャーンティデーヴァは合掌を捧げると言ってるわけですね。
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