解説「菩薩の生き方」第二十六回(5)

【本文】
もし心が浮ついて、他人を嘲笑し、傲慢と固執にとりつかれ、はなはだ残忍となり、邪曲となり、狡猾(こうかつ)となり、自慢をし、他人の欠点をあげつらい、他人を軽蔑し、論争に落ちようとする場合には、自ら木材のように処するべきである。
私の心は、所得と尊敬と名声を求め、あるいはまた従者を求め、奉仕を求める。それゆえに私は木材のごとくに処する。
私の心は、他人の利益に反対し、自己の利益を求め、あるいは取り巻きを欲し、饒舌(じょうぜつ)を望む。それゆえ、私は木材のごとく処する。
忍耐心無く、怠慢で、臆病であり、向こう見ずで、罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)を好み、また自己の朋党を偏愛する。それゆえに、私は木材のごとく処する。
かように、心が煩悩に染められ、無益な企てをなすのを見るとき、勇士は常に、対治法を用いて、それを強く抑制せよ。
【解説】
さあ、この部分は、しっかりと読んで、我々も反省すべきところですね。
もし我が心がこのような状態にあるのを発見したら、我々は「木材のように」、行動をストップすべきです。
そうすると、一日中、我々はストップしていなくてはならなくなってしまうかもしれませんね(笑)。
それでは困るので、対治法、つまり対抗治療法を用います。たとえば傲慢さが出たときには他を称賛する瞑想をしたり、懺悔をしたりします。あるいは憎しみが出たときには慈悲の瞑想をするなど、様々な法の中から、今の自分の悪心に適した対抗の法を選び、実践するわけです。このような方法を、「択法覚支」といいます。
はい。この辺――最近は『入菩提行論』、歌になってね、この第五章も「パート2 正智の守護」っていう歌になってますけども。この歌でもこの部分のフレーズはとても印象的ですけども。われわれが――つまりここに書いてあることはさ、もちろん実際はすべての悪い心の働きに陥りそうになったときに、――もう一回言うけどね――チェンジできればいいんだけど、そうでない場合は木材になれっていう教えなんだけど、じゃあ、どういう心が悪い心なのか。で、それをあいまいにしてるとさ、実際には、「え、わたし、別に悪い心ないですよ」と、こうなっちゃいがちなんだね。実際はいっぱいあるんだけど。全然センスがないっていうか、心の今悪いのが出てるのをつかむようなコツがよく分かんないと。「いや、わたし、別に今日はあんまり悪い心出ませんでしたよ」と。でも実際にはいろいろ出てると。だから逆にこういう感じでワードとしていろいろ挙げてもうらことによって、「あ、確かにこういうのあるな」と。「確かにおれもこういうのよく出るな」と、挙げてもうらことによって、引っ掛かりやすくなるっていうかね。なんか出たときに、「ああ、そうだ、そうだ」「歌とかこの教えにあるように、こういうのは駄目だったんだ」と。だからこれは反省として、バーッて見ていったらいいね。
