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解説「菩薩の生き方」第二十三回(7)

 修行者でさえ、心の重要性を知らなければ、永い間修行したとしても、無益だといわれます。では修行や真理を知らない多くの衆生はどうでしょうか? 修行者も他の衆生も、幸福を求めて進んでいるという点では変わりありません。しかし多くの衆生は、やはり心の重要性を知らず、単に目先の富を増やすとか、人から良く見られるとか、その社会で観念的に幸福と定義される状態に自分を合わしていくことに奔走しています。そういうことを繰り返し、ひたすら輪廻の世界をさまよい続けているのが多くの衆生です。
 しかし彼らは「神秘の秘密の法則」を知らないがゆえに、どんなに幸福を求めても全く得られることはなく、苦しみさまよい続けなければならないのです。その「神秘の秘密の法則」とは何でしょうか?――それが、「自らの心を堅固に修めること」だというわけですね。

 このように、修行者も、修行していない普通の人も、心の働きの重要性を知らないがゆえに、無益に輪廻の世界をさまよい、苦しんできたのです。よってそれを知った私たちは、今こそ、この自己の心を守らなければなりません。
 自己の心を守るというのは、もちろん、エゴを守るという意味ではありません。この「心を守護する」という言葉こそ、この章のテーマである「念正智」の意味ですね。つまり心を守るとは、自己の心を真理から一瞬も外さないようにするということです。あるいは、透明で覚醒した心の状態を常に保ち続けるということです。
 これこそが、いや、これのみが唯一最も重要であるということを、シャーンティデーヴァはここで強調していますね。

 はい。この辺はちょっと、さっき説明したこととかぶっちゃうけどね、「修行者でさえ、心の重要性を知らなければ、永い間修行したとしても無益である」と。
 さっきちょっと冗談みたいに言っちゃったけど、そういう意味で、客観的に見ればわかるでしょ? 例えば、ね、心がものすごく散乱してる人がね、で、煩悩でいっぱいで執着でいっぱいな人が、禅寺に入って、かっこいい感じで座ってると、それをただ映像とか写真で見ると、「あ、この人修行してるな」と、「素晴らしいな」と思うかもしれないけど、格好がそれで心が、例えばさ、「お団子、お団子」とかね、考えてるとしたら、全然意味ないですよね。
 で――これ、笑い事じゃなくて、皆さんも経験あるでしょ? 合宿中、皆さん何考えてました? 例えば(笑)。

(一同笑)

 ね(笑)。「清泉寮の食事はおいしい」と。「あのジャージープリン、ジャージープリン」(笑)。

(一同笑)

 まあわたしも毎日ジャージープリン食べてたけど(笑)。

(一同笑)

 で、それはさ、なんていうか、特別なことじゃなくて、よくあることですよね。よくある、つまり形は修行してるけど頭の中ではいろんなことを考えてると。
 まあ、もちろん皆さんそこで、「ああ、駄目だ駄目だ」ってしっかり戻して、ちゃんと集中するだろうけど。でも例えばそういうことを知らない場合ね――知らないっていうのはつまり、修行っていうのは例えば形だけやってりゃいいんだと。ね。例えば座ってると。で、どうでもいいことをいっぱい考えてると。これを十年、二十年、三十年やったってさ、何も変わらないよね。うん。もちろん、繰り返すけど、詞章とかマントラの場合は、それが持ってるデータによって変わるかもしれないけど、ただ座ってる場合はもう何も変わらない。
 こういったさ、禅的なものっていうのは、すごく危険もある。危険もあるっていうのは、マハームドラーとかゾクチェンもそうだけどね、間違えると動物界に行っちゃうといわれています。だって一歩間違えたらただの無智な世界だから。何も考えない。何も考えないって、とても曖昧な言葉ですよね。さっき言ったような意味で、ほんとに心の本質に気付く意味で何も考えないならばそれは悟りに近づくけども。だって動物だって何も考えてないからね。無智な意味で何も考えなかったら、それはただの動物のカルマをつくることになる。だから本質がわからずにそういう修行をいくらやったって、なんの足しにもならないし、逆にマイナスになる場合もある。
 そして一般の人も――一般の人っていうか、修行してない、修行にまだ出合ってない人の場合は、さっきも同じことを言いましたけども、ここに書いてあるように、「目先の富を増やすとか、人から良く見られるとか、その社会で観念的に幸福と定義される状態に自分を合わしていくことに奔走してる」と。だいたいそうだよね。普通の人が求めてるものっていうのは、まず定義がありますよね。この社会の観念がある。お金自体もそうだけどね。お金があると幸福っていう例えば観念がある。定義があると。あるいは結婚すると幸福とか、あるいは旅行に行けば楽しくて幸福とか、あるいは素晴らしいかっこいい車を買えば幸福とか、そういう条件設定があって、で、それを満たすこと、その条件どおりの自分をつくることで幸福になるような錯覚がある。もちろん錯覚とはいえ一時的には幸福になるかもしれないよ。自分が「それが幸福なんだ」っていうふうに自分を思い込ませて、その状況が来たことによって「ああ! やったー!」――これは心の演技の、まあ幸福みたいなもんだね。でもそれはもちろん真の幸福ではないから、当然それは長続きしない。あるいは多くの、ね、心の欠けみたいなのが出てくると。あるいはもっと言えば、そこに徳があればまた別ですけども、徳がなかったらそもそも何もうまくいかない。そしてカルマの理論から言うと、そのような世俗におけるさまざまな欲求と、その欲求におけるあがきというか、さまざまな行為、それが新たなカルマをつくり出し、また違う世界にわれわれは生まれなきゃいけないと。この繰り返しをしてるわけだね。
 はい。で、彼らは――彼らっていうのは修行者も、あるいは修行してない人も、その神秘の法則――つまり心はすべてであるっていうことを知らないんだと。今の現世的な話でいったらわかると思うけどさ、これも何度も言ってるけど、結局心がすべてっていうのは、現世的にも論理的にもわかりやすい。――っていうのは、いつも言うようにさ、結局、幸福を感じるのは心だからね。状況じゃないよね。例えばどんな人でもある状況になれば幸福っていうことはあり得ないでしょ? ある人は、例えばかっこいい車を買ったら幸福かもしれないけど、わたしみたいに例えば免許もなくて、車なんか全然興味ない人が車プレゼントされても、「なんですか、これは」と(笑)。

(一同笑)

 「邪魔なんですけど」と(笑)。なんの価値もよくわかんないと。全部そうですよね。その状況――あるいは自分の心がすごく落ち込んでて、あるいは悪い状態のときに、例えばおいしい食べ物を食べたって、あまりおいしくないよね。あるいは素晴らしい友達が周りにいっぱいいたとしても、あまり心は晴れないかもしれない。
 結局第一にっていうか、すべての幸福の条件の源になってるのは、当たり前だけど心であると。逆に言えば心がものすごく明るく、澄んで、純粋で、幸福のエネルギーに満ちてるとしたら、その人はどこに行ったって幸福ですよね。お金があればそれはそれで幸福かもしれないけど、なくても「わっはっは」と。別にそれで苦しいと思わないと。車があっても幸福かもしれないけども、なくても別に関係がないと。あるいはかわいい奥さんや素晴らしい子供たちに恵まれてればそれは幸福かもしれないけど、そんなのなくても、独り身でも、あるいは奥さんがすごい怖い人でも、ね(笑)、あるいは会社でいろんな人にいじめられようが、心が非常に解放されてたら、あんまり関係ないよね。
 っていうことは、わかるよね。この心をどうするかこそが、現世的な意味でも最も重要であると。心が例えばいつも人の悪口を言い、人の悪いところばかり見て、あるいは執着が強くていつも人をうらやんで――こういう人がどんなにお金を得ても、どんなに素晴らしい友達を得ても、どんなに車やその他の素晴らしい物質を得ても、やっぱりその人の人生は不幸ですよね。そういうことは誰でもわかりきってはいる。わかりきってはいるけども、やはりわれわれは目の前のそのような条件、物質を整えたり状況を整えたりすることに目を向けちゃって、で、それによって、繰り返すけど、悪いカルマをまた積んで、何度も生まれ変わっていくと。
 でもこれを、ここに気付けば、あるいは教えられれば――「いや、そうじゃないんだよ」と。「心だよ」と。「あなたの心をこそ変えなきゃいけないんだよ」と。「それが現世的な意味でもこの世で幸せになる道だよ」と。あるいはもちろん悟りとかいった場合は、もちろんそれは当たり前の話であって。心をなんとか正しく保つこと、それがまず第一歩なんですよ、ということですね。

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