解説「菩薩の生き方」第二十三回(6)

「この『心がすべて』ということ、あるいは高度な念正智に主眼を置いた考え方がゾクチェンなどにはみられますが、ここにおいても我々は間違わないようにしなければなりません。確かに心のコントロールに成功すれば、他の修行は一切いらないということもできますが、現代においてそれが実質的にどれだけ難しいかということです。」
はい、これも同じだね。これも繰り返しここでは言ってるけど、ゾクチェンとか代表的ですけども、心がすべてであると。極論すれば、心がすべてというよりも、例えばわれわれはもうすでに悟ってますよと。よって何もする必要はないと。ただただ、ありのままにあればいいんですよと。そういうことを例えばゾクチェンとかでよく言って、あるいはそういったもの、ちょっとそういうのってかっこいい感じだからさ、よくスピリチュアル的な人たちもそういう言い方をするわけだけど。それは言葉としては事実なんだけど、事実なんだけども当然、現実的には――つまり「ありのまま」っていうけども、ありのままを悟るのは難しいと。で、ありのままってなんか曖昧ですよね。ありのままってなんなの? ありのままって。ね(笑)。「何それ?」って感じだよね(笑)。「ありのままって何?」と。「ありのまま」(笑)。「なんですか、それは?」と。例えばある人が煩悩にふけり、あるいは、そうだな、怒りで頭がいっぱいであると。で、人に暴力を振るったと。これだってありのままといえばありのままだよね。煩悩のありのままと。でも当然、そういうことを言ってるんじゃないよね。だから心の本質のありのまま、心の本性の最も自然な状態。うん。で、それはわれわれはもともと持っている。それはもう真実です。でも、何度も最近こういう話してるけど、その持ってることに気付けてないのが問題であってね。
あるいは「非努力」っていうのも同じだけど、努力をしないと。努力をしてはいけないっていうのがゾクチェンの教えですけども、それがわれわれは理解できない。「努力をしないってどういうことなんだ?」「じゃあ寝てりゃいいのか」と。前にも言ったけど、グデーンとすると。これはグデーンとする努力をしてます、もうこの時点でね。じゃあボーッとしたらいいのかと。それはボーッとする努力をしています。「どうすりゃいいんだ!」ってなるよね(笑)。でもこの先に、その努力をしない世界がある。でもこれだけでいくのはもちろん非常に難しいんだよ。どんどんわれわれは言葉の世界、概念の世界に絡め取られるからね。「努力をしない、努力をしない、努力をしない」と。今言ったようなグデーンも駄目で、ボーッも駄目で(笑)、「いったい努力をしないってなんなんだ!」と。あるいはさっき言ったように、煩悩のままに動けばいいっていうもんでもないと。なんなんだと。こんなことをしてるとたどり着けません。だからこれは発想としては同じ。じゃあどうするんだと。じゃあちょっとマントラでもやりましょうか、とかね、じゃあちょっとイメージをつかってみましょうか、とかね、そういう感じに、だんだんだんだん外側の修行に入っていくんだね。
だから、言ってることは同じですけどね。もともとこのゾクチェンにしろ、ヨーガにしろ、原始仏教にしろ、本来はシンプルなもんだったと。で、そのシンプルを追求してるところも当然現代では残ってる。まあ禅とかもそうだけどね。禅っていうか、禅は宗派によっていろいろ違うのかもしれないけども、ひたすら座りましょうと。禅もさ、本来のものに帰るならば、ボーディダルマは気功を教えてたわけだから、禅の人も気功しないと駄目ですよね、まずね(笑)。禅の人はまず易筋経とかしっかりやって、パワーアップして、瞑想に入ると。でも禅的なやり方ではやはり現代では非常に難しいと思うね。ただ無になる、あるいはひたすら座る、座る、座ると。これもほんとにその人の心が堅固につくられていないと、まさにそれは自己満足の、修行っぽい、なんか――まあ、やはり日本人ってそういうセンスがあるんでしょうね。センスっていうか、禅寺とか、なんかいい感じじゃないですか。なんかね(笑)。
(一同笑)
庭とかがあって、なんて言うの、なんかわたしよくわかんないけどさ、石の周りに砂がぐるぐる描いてあったりして(笑)。
(一同笑)
ああいうところに入って、なんかこう丸い窓があって、光が差し込んで、その中でこうやって座ってると、なんか、「なんかつかんだ!」みたいな感じになって(笑)。
(一同笑)
で、そういうのをまたあのチョギャム・トゥルンパとかはスピリチュアル・マテリアリズムって言ってるんだね。そういう世界にはまるなと。そういう格好の世界にはまってはいけないと。だから実質的にわれわれは真理をつかまなきゃいけない。それには繰り返すけども、格好でもなく、結局心なんだと。
でも、繰り返すけど、結局は心であるっていうそれを成し遂げるためには、なかなか現代では難しくなってきてるので、この数百年とか千年とかをかけて、多くの聖者方が、現代に合ったようなマントラ、呼吸法、アーサナ、ムドラー、あるいはさまざまなイメージ的な瞑想等のテクニックをいろいろ、編み出したっていうか降ろしてきたわけだね。
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