解説「菩薩の生き方」第二十七回(8)

「常に、真理の観点から非難されない状態に自己を置き、他者もそのようにさせる努力をする。」
はい。これはこのままですね。何度も言うけども、真理の観点からですよ。だから別に、社会的な常識とか、あるいは最近のまあ流行りとか、あるいは一般的な物の見方っていうのは、それも少しは尊重しなきゃいけないかもしれないけど、でもそれはあまり中心的なことではない。そうじゃなくて真理の観点から見て、非難されない状態に、もちろんまず自分を置かなきゃいけない。わたしは真理の理想から見て、恥ずかしくない生き方をしてるだろうかと。そしてできるならば他者、もちろん自分と縁のある人たちも、そのように真理の観点から見て、外れていない、恥ずかしくない生き方をさせるように手助けをするということですね。
はい、そして最後に、「化現のように、心を我執無く保ちたい」と。
これはここに書いてあるように、化現っていうのは、幻、つまり魔術師が出した幻。まあ現代的に言うと例えば、三次元的なプロジェクションっていうか、ありますよね、映像でパーッと現わすと。しかも、そうだな、実体のない、意志が存在しない――例えばアニメーションみたいなもんでもいいよ。つまりアニメのキャラみたいなのがバーッて出てきましたと。で、それは、なんていうか、一つの目に見える形を持っていて、で、例えば顔とかもあって。でもここに現われたこのアニメの映像にはさ、なんの意志もないですよね。われわれと同じような格好をしてるけども、ただの映像であると。で、つまり我執がないと。このアニメの映像のこの人物は、「おれは」とか全く思っていないと。われわれが単純に、外的にまるで人のようにそのアニメの絵を見てるだけであって、そのアニメの映像自身は、なんの「わたしは」とか何も思っていないと。
で、このイメージね。つまりわれわれもその幻によってつくり出されたただの幻のように、我執を持たないと。つまりいつも言ってる「わたし」とか、あるいは「わたしの」とか「わたしが」とか、その感覚を一切持たないと。
たださ、実際にはこれは、「入菩提行論の歌パート2」で「我執なき心を保とう」ってあるけども、実際にはもちろんわれわれは、例えば「わたしは神のしもべである」とか、あるいは「わたしは菩薩である」とか、そのような良い意味でのアイデンティティー、良い意味での自我意識は逆に持たなきゃいけない。それは強く持たなきゃいけないんだけど、ここで言ってるのは、分かると思うけど、つまりブレーキなんだね。ブレーキ。ブレーキっていうのは、われわれが常に心にこの「我執なき心を保とう」と。「化現のように」――一つのイメージとしてね、魔術で作られた、つまりわたしは魔術で作られた、ただの幻のようなもんだと。だから幻だから、「わたしが」っていう思いはないんだと。これをベースに置くんです。ベースに置くことによって、しかし一方では、もう一回言うけど、「菩薩である」っていうときは我執があるんだけど。良い我執ね。しかし一般の人が持つような我執はなくすると。これを忘れないことによって、なんていうかな、日常生活において、心のいろんなこだわりが出たりとか、とらわれが出たりとかいうものを防ぐんだね。
わたしも、自分で作ってあれですけど、あの「入菩提行論の歌」は素晴らしいなあと思う。ね(笑)。で、いろんなフレーズがたまによく頭を巡るわけだけど。特にわたしも今の部分はとても好きで、この「我執なき心を保とう」と。ね。これが頭をよく駆け巡ると。で、例えばそれが駆け巡ると、もうわたしも単純だからさ、もうスイッチが入るんだね。我執なき自分になる。例えば経行とかしてるときとかでも、歩いてて、なんか考え事をしたりとか、あるいは普通に、なんというかね、いろいろ景色を見ながらいろいろ考えたりもするわけだけど、「我執なき」っていうのが出てくると、もう我執なくなる(笑)。単純でいいよね。もうなんかロボットのように、あるいは幻のような気持ちで歩くと。で、それがベースなんだと。だからその時点でもう、なんていうか、何かそこでいろいろ経験があったとしても、なんのとらわれも生じない、怒りも生じない、欲望も生じない状態になるんだね。はい。それが、ベースにわれわれが持ち続けなきゃいけない、我執なき状態であると。
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