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解説「菩薩の生き方」第二十一回(1)

2017年7月5日

解説「菩薩の生き方」第二十一回

 そして三つ目の覚醒した意識による自己観察。これも細かく分類すればいくつかのパターンがありますね。

三―一.心と体の動きを、真理と外れないか観察し続ける。

 たとえばインターネットなどでも見受けられることですが、普段は崇高なことを書き込んでいる人が、誰かから攻撃されたとたん、いきなり汚い言葉や傲慢な言葉で反論する。
 これがこの経典でいうところの「放任された心の狂象」です。
 あるいはお腹いっぱいなのについ貪って食べ過ぎてしまうとか、つい見栄を張って嘘をついてしまうとか・・・我々は無意識に心に振り回されて犯してしまう悪業というのが非常に多いんですね。それは「しょうがない」のではなくて、念正智の実践が足りないというわけです。
 ここにおいて自己観察ができていると、たとえば人から馬鹿にされたとき、自分のプライドが傷つけられ、プライドを守ろうとする心がわきあがってくること、そしてそれが怒りという感情に転じ、そこから真理の教えが見えなくなっていき、瞬間的に過去の習性に基づいて何らかの対応策をとろうとし、実行に移そうとする・・・これらのプロセスをつぶさに観察することができます。そしてその途中で「ストップ」をかけることができるのです。つまり心の狂象を放任せず、念という縄で縛り付け、コントロールするのです。
 実生活における実践的な念正智としては、この項目こそが最も重要なことです。
 もう一度簡単にまとめると、自分の心の働きと無意識に行動に移るプロセスを常につぶさに観察し続けることで、悪しき心、悪しき言葉、悪しき行為の連鎖を常に止め続けるのです。
 そしてできれば真理の発想、真理の言葉、真理の行動を常に行ない続けるのです。

 はい。この『菩薩の生き方』は、『入菩提行論』を、まあわたしが解説したものですが、まあ、たまにしかやらないので、流れをちょっと、もう一回見ると、ここは「第五章 正智の守護」っていうところですね。はい、で、この「正智の守護」のテーマとして、念正智っていうのがありますよと。皆さんはいつも聞いてる念正智ね。はい。で、この念正智のこの「念」っていう言葉、これはいつも言ってるけど、念、これはパーリ語でサティ、サンスクリット語でスムリティといって、これは英語ではマインドフルネスと訳しています。で、マインドフルネス瞑想とかね、最近よく流行ってますけども、実際にはもちろんその言葉だけ使って、あまり本質的な念とは関係ないことをマインドフルネスっていってる場合が多いわけだけど、ほんとの意味でのこの念、サティ、スムリティとはいったいなんなのかと。その説明がずーっと続いてるわけですね。
 で、ここでは簡潔にそれを三つにまず分けましたと。三つというのは、記憶――単純に記憶するっていう意味での念。それから二番目が、よく出てくる四念処ね。われわれの身・受・心・法。われわれの体、感覚、心、そして一切の存在に対しての観察をすると。はい、そして三つ目が今日読んだところね。「覚醒した意識による自己観察」と。
 はい、覚醒した意識。項目だけ言うならば、「覚醒した意識による自己観察」。はい。これをよく最近ではマインドフルネスといってる場合が多いのかもしれないけども。でもそれは単純に、なんとなく自己観察すればいいっていうもんじゃない。あるいはいつも言うように、レッテル貼りをすればいいっていうものでもない。じゃあどういうパターンがあるのかっていうのがこのところですね。
 で、それをまあ、いくつかに分けていて、まず今日読んだところ、三―一ね。つまり覚醒した意識による自己観察っていう意味での念の、さらに細かく分けた一番目。はい、それが、「心と体の動きを、真理と外れないか観察し続ける」と。
 はい、これは言ってみれば、いつも皆さんに言ってる念正智の世界ね。これはわかりやすいよね。常に自分の心を観察する。そして実際に自分が、もちろん言葉も含めてね、心で自分が何を考えてるのか、そして何を今言おうとしてるのか、何を実際行動してるのかと。これを観察して、それらは真理と外れていないかっていうのをしっかりと観察し続ける。で、もちろん観察して、ちょっと外れそうになったら正しくしっかり修正すると。で、心においても悪い心が出そうになったりあるいは実際に出ていたら、それをしっかり修正すると。
 ここに書いてあることはわかりますよね。われわれは念正智が足りないために、例えば崇高なことをいろいろ言ってても、誰かに攻撃された途端、いきなり汚い言葉や傲慢な言葉がバーッと出ると。それはしょうがない、つまり人間の心っていうのはそういうふうにまだ未熟だからしょうがない――では済まされない。そうじゃなくて念正智が足りないんだと。
 つまり、もう一回言うけど、念正智っていうのはわれわれの心に見張り人を置いて、われわれの心が真理からずれないか、あるいは今なそうとしてる行動が真理にしっかりのっとっているのか、あるいはエゴを増大させるものなのか、それを常に観察しチェックして、駄目そうだったらしっかりとそれを修正すると。この繰り返しをしてるわけだね。

 はい。で、ここに書いてあるのはまあ理想ですけども、例えば人からばかにされたとき、

「自分のプライドが傷つけられ、プライドを守ろうとする心がわきあがってくること、そしてそれが怒りという感情に転じ、そこから真理の教えが見えなくなっていき、瞬間的に過去の習性に基づいて何らかの対応策をとろうとし、実行に移そうとする・・・これらのプロセスをつぶさに観察することができます。」

と。
 はい。もちろん実際には、われわれの心の働きっていうのは、いつの間にかバババッていう感じで、悪しき思いが連鎖して、いつの間にか悪い心が噴き出ているので、なかなかそれは難しいと。でもこれは真剣にそれをやろうとしてればだんだんできるようになってきます。
 だから最初はわけわかんないうちにハッとしたら、悪しき心が湧いて悪しきことを言ってしまったとかね。あるいは悪しき行動を取ってしまったということが多いと思うんだけど、真剣に念正智しようと考えてると、まあ、ここに書いてあるほど細かくいかなくても、悪いのが出てきた段階でグッとストップすることができると。「あ、今悪い心が出てきた」と。で、それを繰り返してると、ここに書いてあるようにその動きのプロセスもだんだん観察できるようになってくると。今わたしの心の中にこういう心が湧いたと。それは単にさっきああいうふうにばかにされたから、それを守ろうという気持ちが今出てきて、で、それによって、悪しき過去の習性から、そこに怒りやいろんな悪い思いを乗っけてるだけなんだなと。で、これは誰のためにもならないと。わたしもそれによってさらに悪い悪業を積んでしまうし、悪い習性は強くなってしまうし、相手を傷付けると。もしここでわたしが耐えればそれはカルマ落しになって、相手にも徳になるし、わたしの修行も一気に進むだろう、とかね。そういうふうにしっかり観察して考え、そして修正していくと。
 現実問題としてはそのような、しっかり日々心を観察し、正しい方に修正する実践を繰り返すしかないんだけど、それと同時に、まあもちろんベースとしては、日々教学がまずベースに来る。日々しっかり教学をすると。つまりデータを入れないと、何が正しくて何が間違ってるのかわからないし、それからデータがいっぱい入ってると念正智しやすくなります。つまり結局はデータの問題なので、データがあんまりないとブレーキがかかりにくいんだけど、データがいっぱい入ってると、グーッと悪い意識が湧き上がってきたとしても、正しい意識のデータもいっぱいあるから、それがグーッと湧き起こってきて、「あれ、それでいいのか? それでいいのか?」っていうストップがかかりやすくなる。

 はい。で、もう一つ大事なのが懺悔ですね、懺悔。まあ懺悔っていうのはもちろん実際に懺悔の瞑想としてやってもいいんですけども、まあ懺悔っていうか反省と言ってもいいね、この場合は。つまり、その場でパッと念正智できれば最高だが、できなかった場合。できなかった場合、まあ懺悔というか、しっかりそれを振り返り、つまり、過去のその自分の過ちを分析するわけだね。「なんでわたしはあそこでああいうふうに悪い心が出て過ちを犯してしまったんだろうか?」――それはまあ、ここに書いてあるように、まずここで、こういうかたちでプライドが傷付けられたんだなと。そしてこの自分を守ろうとするエゴが、自分のプライドを守るために、怒りという武装をしたんだなと。そこで真理の教えが全部吹っ飛んでしまい、で、過去の悪しき習性によって、このようなときは怒りを発してこのような行動に出ればいいんだっていう間違った意識に心が完全に乗っ取られてしまったんだなと。そして、わたしは過ちを犯してしまったんだなと。これは大変なデメリットである――こういうふうに分析し、次同じようなシチュエーションが来たときには絶対そのような態度を取らないようにしようと。そのようなときは例えば感謝しようとかね、あるいは愛を持って相手に接そうとか、あるいは謙虚な心で、プライドが絶対に出ないように気を付けようとかね、このようにその反省をして決意をすると。
 で、また同じような場面に遭遇し、また失敗するかもしれない。そしたらまた立ち返って反省し分析し、「よし、次こそは」と決意をすると。この繰り返しが大事だね。
 はい、そしてもちろん、同時に、瞬間瞬間の念正智をしっかり心掛けることで、さっき言ったように、ハッとしたときにはもう過ちを犯してしまった、その後とに気づくとかじゃなくてね、もう犯しそうになってる、あるいは悪い心が出てるときにパッと気付けるようになる。
 その段階で、もう一回言うけど、それを観察し、それがいかにデメリットが多く、そして不当なものであるか。つまり正当的な聖なる心の働きではなくて、不当なる魔の働きであるかをしっかり観察し、ストップをかけることができると。
 はい。これが、いつも言ってるけど、最も大事な、重要な、マインドフルネス、念正智です。何度も言ってるけどね。ただ無作為にボーッと自分を観察しても仕方がない。あるいは単に「歩いてる、歩いてる」とか「食べてる、食べてる」とか言っても仕方がない。じゃなくて、いかに自分の心が真理からずれないか。ずれてたら修正する。この努力、これが、最高のっていうか、最も重要な念正智、マインドフルネスですよと。

「そしてできれば真理の発想、真理の言葉、真理の行動を常に行ない続ける」

 はい、これはもちろん、積極的な策ね。つまり単純に「悪い意識が出てないかな?」ではなくて、逆に「わたしは真理に基づいて最高の心の働きを今、常に持ってるだろうか?」と。あるいは「バクティとか菩薩道に基づいた最高の実践を、あるいは全力の実践を、今わたしはやってるだろうか?」と。あるいは「四無量心に基づいて、わたしの心、言葉、行動は他者のためになってるだろうか?」と。ね。そのようなことを一瞬一瞬考えながらやったとしたら、これはよりプラスの素晴らしい念正智になるね。
 はい。で、念正智っていうのは、それだけをもし皆さんが――もちろんベースとしてしっかり教学をしなきゃいけないけど、この念正智の実践を、もちろん二十四時間は難しいかもしれない。しかし二十四時間やろうという気持ちによって、一日のうちに数時間でももしできたなら、それはものすごい皆さんにとってのパワーになる。それを例えば一年二年と繰り返したら、大聖者でしょうね、それだけでも。うん。まあ多分やらないと思うけどね、みんなね(笑)。「いや、わたしはやります!」っていう人がいたらぜひやってください(笑)。うん。一、二年でもそれを継続して毎日できたらもう大聖者です、それだけで。それだけ人間の心っていうのは習性によってできてるものだから、努力によっていかようにも変わっていきます。で、放っとけば放っとくほど、どんどん過去の悪しき習性に飲み込まれていくと。はい。だからこの念正智が一番大事だっていうことですね。

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