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解説「菩薩の生き方」第九回(5)

 はい。そして最後の祈りとして、「害を加えることさえも、安楽を得ることに関係のある」云々と。はい、これはまあ、今までの話を見れば分かるように、害を加えるっていうことも縁を作ることになるから。もちろん、何度も言うように、害を加えてあとで改心した場合、救ってもらえるけども多くの苦しみを伴なうことになる。だから最初から害は加えない方がいい、もちろんね(笑)。例えば「おれは先生と縁を作るんだ!」ってわたしを殴りに来たら駄目ですよ(笑)。

(一同笑)

 そういう馬鹿な考えは持っちゃ駄目(笑)。じゃなくて、最初から崇高な、例えば弟子として、しもべとして、あるいはその道に従う者としての縁を作ると。これは最高だけども。じゃなくて、そういう縁は持ってない人もいる。そういう縁を持ってない場合、まあ、これは逆に菩薩の側からやる場合もあります。菩薩の側から悪人にわざわざ近づいていって、で、当然悪人はその菩薩を罵倒するかもしれない。はい、これで縁スタートと。はい、救済の種が蒔かれましたと。悪人は気付いていないが、もうすでに釣り針に引っ掛かってると。あとはこの縁が逆転するのを待つだけっていうかな、そういう場合もあるね。だからそれだけの存在なんだと。
 普通の善人っていうのは、もちろんこれはネットとか見てると分かるけどさ、すごくネットとかでいいこと言ってる人が、人から罵倒されるといきなり性格変わっちゃう場合がある(笑)。でもそれは普通ですよね。普通っていうのは、もちろん条件が整えば良いことをやるけども、自分を阻害したり罵倒したり、あるいは自分を苦しめる者に対しては、当然自分も罵倒するし、あるいは怒りが出るし、あるいはそういう人のためには何もやってあげたくないっていう気持ちが、人間ならば自然に生じるかもしれない。しかし何度も言うけども、菩薩は違うんだと。菩薩に対しては、素晴らしい縁によって近づこうが、あるいは悪しき縁によって罵倒とか攻撃っていうかたちで近づこうが、菩薩自体は全くエゴがないので――これは理想としてはね、みんなもそうならなきゃいけないわけだけど――エゴがないので、ただみんなを救うことしか考えていない。
 だからこれはさ、よくたとえに出されるように、子供と大人の関係を考えても分かるかもしれない。小っちゃい子がね、小っちゃい、ほんとにまだ二歳とか三歳の子がいてね、で、親がいて、親は当然その子たちを幸せにしたいと思ってると。で、いろいろ教え込んだり、あるいは危ないことから救ったりするわけだけど、当然、聞き分けのない子もいるわけだね。聞き分けのない子とかがいて駄々をこねて、お母さんに悪口を言ってくるかもしれない、ひどいことを言うかもしれない。でもお母さんは、言うことを聞かせたい。なぜかというと、そこで言うことを聞かせることがこの子のためであるとか、あるいは危険から救うとか、そういう理由があったとするよね。でも何言ってもその子が駄々をこねて親を罵倒してくると。でもある程度泣き疲れたあとに、「ママ、さっきはごめんなさい」って言った。――そしたらこれは喜びですよね。ああ、やっと分かってくれたかと。ああ、良かったと。ああ、これでこの子は危険から救われたとか、ああ、これでほんとにこの子は幸福になる。やっとわたしの気持ちが分かってくれたね、で終わるよね。じゃなくて、「お母さん、さっきごめん」――「今さら何言ってるの!」とかさ(笑)、こんなお母さんはあんまりいないよね。まあ、最近はいるかもしれないけど(笑)。普通はあんまりいないですよね。つまりそのお母さんがそこで願ってること自体が、その子供が、正しくっていうか、幸せになることだから。その道に気付いたならば、それは大変な喜びであると。で、そのような感じで菩薩はもちろん衆生を見るわけだね。
 はい、だから最初にちょっと話を戻しますが、皆さんもこの偉大なる菩薩道に入ったと。あるいはバクティの道に入ったと。これはある意味みんなの希望になる。それだけの自負を持たなきゃいけない。そして、今の話とつなげるとね、だから菩薩っていうのはほんとに広い心を持たなきゃいけないんだよ。わたしは菩薩なりと。このような気高い心で、普段生じるさまざまな小さい、どうでもいいような怒りとか、なんていうかな、心のストレスであるとか、どうでもいいような悩みであるとか、そんなものは全部吹き飛ばしてください。この気高い心によってね。あ、そうだ、わたしは菩薩だったと。いつまでも「あのときあいつがこう言った」とかねちねち考えてるような(笑)、そんな種じゃないんだと。ね。わたしは菩薩っていう、仏陀の一族の種なんだと。よってわたしは、たとえわたしを全世界が――よくそういう詞章もあるけども、全世界で罵倒されるような状況に自分を誰かが追い込んでも、あるいは自分の体を誰かが八つ裂きにしようとも、わたしにとってはその相手に対する怒りやこだわりは一切ないと。ただ相手を救いたいと思う心、それしかないんだと。そういう状況まで自分の心を引き上げなきゃいけない。あるいはそういう状況まで自分の心を広げなきゃいけない。これを、気高い責任、自負として、日々の課題にしたらいいですね。

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