解説「菩薩の生き方」第九回(4)
【本文】
さて、次からの部分は、この章の締めの部分ですが、深い意味合いがあるところだと思います。
まず、このようなすばらしい菩薩に対して悪い心を持つ者は、地獄に落ちるといいます。
しかしその者が改心したならば、遥かに良い結果が生じるとあります。
そして最後に、菩薩に害を加えることさえ、安楽を得ることに関係がある、となっています。
これは簡単に書きますと、菩薩に悪心を持ったり実際に害を加えたりするなら、ものすごい苦しみの果報が返り、実際に地獄に落ちることもあるかもしれません。
なぜなら菩薩は光が強いからです。また、菩薩を害することで彼の救済活動を阻害したなら、多くの衆生の幸福の邪魔をすることにもなるからです。
しかし菩薩は、悪心に対して慈悲で返す者です。害に対して恩恵で返す者です。
よって――どれくらい時間がかかるかは別にして――菩薩に害を加えたり悪心を持ったりしたとしても、それを条件として、その縁を利用して、菩薩はその人を救済するでしょう。
だから、全く縁がないよりは、たとえ悪縁でも、菩薩とは縁があったほうがいいということになるんですね。
はい、これは最後のところね。ここは一見矛盾するような書き方がされてますと。つまりまず、「このようなすばらしい菩薩に対して」――まずこの本文を読むと、「菩薩に対して心の中で悪心を抱いただけで、その人は悪心の発生した刹那の数と同じ数のカルパの間、地獄に落ちる」と。これ意味分かります? 刹那っていうのはこれは昔の仏教とかの時間の数え方で一瞬のことです。つまり、これはまあ現代的にいうと〇・何秒とかいう感じだね。一瞬の単位。じゃあ仮にそれを〇・〇一秒だとしましょう。〇・〇一秒、仮に一瞬、菩薩への悪心――悪心っていうのはまあ、いろんな意味での悪心ね。例えば「あんな菩薩死んじまえ」とかね(笑)。あるいは「あの菩薩、嫌いだ」とか、あるいは――菩薩って今、菩薩っていう言い方したからあれだけど、さっきから言ってるように、皆さんの法友もある意味菩薩です。あるいはもちろん皆さんより上を行く者ね、これももちろん菩薩ですよね。こういった菩薩――もちろん有名なっていうか偉大な救済者たちもみんな菩薩だよね。こういった者に対してちょっとでも、例えばまあちょっと厳しいことを言われたからって、「クソッ!」とかね(笑)、「うるせえ!」とか(笑)、そのような悪心ね――が、いいですか、ちょっとでも生じたら――例えば今言ったように一刹那。一刹那は正確には何秒か知らないけど、仮に〇・〇一秒として――「くそー、あいつめ、許せねえ……まあ、でもそんなこと思っちゃ駄目だ」って思ったとするよ。はい、今どれくらいですか――「くそー、あいつ、許せねえ」
(一同笑)
いや、もう三秒間生じましたと。はい、一刹那をじゃあ〇・〇一秒だとしたら――あ、一秒で百倍か。で、三秒で三百倍? つまり三百カルパ(笑)。カルパっていうのはいろんな数え方があるけど、一番単純な数え方としては、宇宙が一回できて終わるまでの時間。まあ数百億年とかかもしれない。じゃあ仮に、分かりやすくするために百億年にしましょう。百億年かける三百で、三兆年です。つまり、「くそー、あいつ、ひでえこと言いやがって……あ、駄目だ駄目だ」――はい、三兆年、地獄(笑)。これくらいの厳しい話なんだね。うん。
さあ、皆さんは今生、何秒間、菩薩に悪心を持っただろうか。うん。まあ、そういうのが全然ないっていう人もいるだろうけど、阿修羅的な人とかあるいは地獄のカルマがある人は、結構あると思うんだね。心が、そんな本心で思ってなくても、ちょっとそういう悪い心を抱いたとかね。それくらい、菩薩に対する悪心っていうのは大変な結果を生むと。
で、それはなぜなのかっていう問題だけど、これは何回か言ってる話だけど、ここには二つの例が挙げられてる。一つは、菩薩は光が強いと。光が強いがゆえに、菩薩に対して良いことをやったら、それは普通の人に対して良いことをやったときよりもはるかな何億倍もの力で返ってくる。これが一つね。だから菩薩っていうか阿羅漢、つまり――仏教で解脱した人を阿羅漢っていうんですけど、阿羅漢っていうのは意訳すると「供養を受けるに値する者」っていう意味なんだね。それはなぜ供養を受けるに値するかっていうと、そのような解脱者に供養をしたら何百倍もの果報があるから。それはなぜかっていうと、光が強い、光源が強いので、鏡のように、それが一対一で返るんじゃなくて、一対百とか一対一万とかで返ってくる。だから逆に悪いこともそれくらいで返ってきちゃうんだね。だからそれが一つの意味。
で、二つ目の意味は、ここにも書いてあるように、つまり菩薩っていうのは救済活動を行なっている。で、それに対して悪い心を持ったり、あるいは悪いことをやったりすることで、それを阻害する方向になってしまう――っていうのが二つ目ね。
でも実はね、ここに書いてないけど、もうちょっと本質的な意味もあるんです。本質的な意味っていうのは、どっちかっていうと自分の心の意味でね、つまり菩薩っていうのは素晴らしい光であると。素晴らしい光であって、あるいはわれわれを本当の意味での幸福、あるいは真理、あるいは真実の世界へ導く、いいですか、なんていうかな、ベクトルなんだね。そう、ベクトルって言った方がいいかもしれない。菩薩っていうのはわれわれを本当の意味での幸福や神の世界、真の世界へ導くベクトルです。で、それに対して、表面的であろうがなんであろうが悪い心を持つ、悪い言葉を発するっていうのは、つまりそのベクトルを、自分の中のそのような聖なるベクトルを捻じ曲げることになるんだね。で、これによって自分の心のベクトルがその菩薩が向かう方向、あるいは真理が向かう方向とずれるんです。で、これによって――ずれるってことはどういうことですか? つまり逆方向、つまりわれわれが目指す菩薩の境地や仏陀の境地ではなくて、全く真逆のエゴの境地、あるいは地獄や三悪趣の世界に心が向けられることになるんだね。だからこれはほんとに気を付けなきゃいけない。
もう一回言うけども、われわれが冗談であろうが、あるいは本心でなかろうが、心の中で聖なるものに対して悪い思いを持ったりするっていうことは、単純に、さっき言った分かりやすい、救済を阻害するとか、あるいは悪いものが返ってくるっていうただそれだけじゃなくて、われわれの心のベクトル自体が知らぬ間に変わってしまうんだね。で、闇の方に行ってしまうっていうか。光ではない闇の方に行ってしまう。よって、それは駄目だと。
で、これはね、何回か言ってるけど、受動的なものも駄目です。受動的なのっていうのは、例えば聖者を誹謗する言葉とかを聞いても駄目です。もちろん偶然とかはしょうがないけどね。偶然隣の人が言っちゃったとかだったら(笑)、それはまあ、しょうがないけども。じゃなくて皆さんが興味を持って、例えばそういう、まあ最近はネットとかがあるから、ネットとかでそういった聖者とかに対する否定的なものを読んだり聞いたりすると、皆さんの魂のベクトルがちょっとずれます。ずれるっていうかベクトルが変わってしまいます。これは大変なね、ほんとにくだらないっていうか、無意味なマイナスなんだね。だから自分がそういうのを発しないだけではなくて――もちろんね、例えば皆さんの知り合いとかがそういった真理に反対してると。で、それを説得するっていう意味で話すのはいいですよ。うん。あるいはこちらにそれだけのパワーと慈悲があればそれはいいんだけども。じゃなくて、全然それだけの力もないと。あるいは表面的に誰かとそういった議論をすると。これもあんまりやめた方がいいね。それによって、なんていうかな、相手にも悪業を積ませるし、相手にもそういった悪いことを言わせたっていうことになるし、自分も、まあ相手を変えられれば別ですけども、単純に、さっきから言ってる魂のベクトルを捻じ曲げてしまうことになる。だからそういった、実際に相手を救済できる、救済する場合は除いて、無意味に否定的な、あるいは真理に反するような言葉とか――つまり人生は短いからね、そんなことに関わっている暇はない。うん。そんなことで、なんていうかな、わざわざ魂の流れを停滞させてる暇はないんだと。だから自分ができるだけの救済と、それからその救済の原動力としての自分のステージをできるだけ上げるための修行ね、それだけに邁進すればいい。そして心の中ではその聖なるものや高いものに対してはもう完全にもう全肯定意識を持つと。
ラーマクリシュナが言うように、「われわれはマンゴーを食べに来たんだから、早く食え」と。いろいろ悩んでる暇はないんだと。例えば修行――心がさ、ちょっと弱い人ととかは、すぐ悩む。これは完全に弱いからです。最初は燃えてたのに、「修行だ、頑張るぜー!」ってやってたのに、ちょっとカルマとかにぶち当たると、「でも本当に修行って意味があるんだろうか?」とか(笑)、「神っていうのはどうなんだろうか?」とか、「先生は菩薩行とかバクティとか言ってるけども、でもこういうやり方もあるんじゃないか?」とか。「いいからやれ!」と。ね(笑)。まずやってみろと。まずやってみて、神を悟ってみて、あるいはバクティとか菩薩道のある程度の境地に行ってみて、それから考えりゃいいじゃないかと。うん。その前にああだこうだ言ってる暇がおまえにあるのかと。カルマ的にいったって、いつ死ぬか分からない。あるいは死なないまでも、いつ自分の運命が修行から外れるか分からない。だから今、目の前に来たマンゴーを食えと。議論したいならそれからやれと。もちろん食ったら議論できません、もう(笑)。つまり確信が出てしまうから。「ああ、やはりこれしかない」って悟ってしまう。だからまずその悟りを得なさい、ということだね。
はい。だから菩薩に対しての、まあ、いろんな意味での悪心っていうのは、それだけの多くの悪い果報を生むんだと。
しかし、それは完全にもう言ってしまったら駄目っていうわけではない。そこでその人が改心するならば、逆にはるかに多くの良い結果が彼らに生じると。これはお釈迦様も同じことを言っています。これはなぜかというと、まあ簡単にだけ言うと、つまりもともと菩薩の力、菩薩の存在意義がそうだからです。菩薩の存在意義っていうのは、もともとはみんなを引き上げる。だってそうでしょ。菩薩の存在意義がさ、「菩薩に悪口を言ったら地獄に落ちる」――これが菩薩だったら、そんな菩薩いない方がいいよね(笑)。
(一同笑)
じゃなくて(笑)、菩薩の存在意義は、あくまでも関わった人みんなを解脱させる。これが菩薩の存在。だから逆にいうと、そこまで、みんなを解脱させるために存在する菩薩に悪口を言うとか、ここまで魂が捻じ曲がってる人の方がちょっとおかしいんだね。でもそれは確かにしょうがない場合もある。それだけ今の時代っていうのは悪いし、わたしもそういう懺悔はたくさん聞いた。つまり、心の中で先生とか聖なるものに対してね、あるいは如来とか神とかラーマクリシュナとかに対して、なんか悪口が出てしまうんです、あるいは悪い思いやイメージが本心じゃないのに出てしまうと。例えば先生とか仏陀とかを殺すイメージが出てしまうとかね。それは確かに完全にその人の悪いカルマです。で、それは一人二人ではない。まあ、そういった悪いカルマに覆われてる時代なんだね。
しかし、なんていうかな、悪しきカルマの縁が切れれば、あとは菩薩との強い縁だけが残れば――もう一回言うよ――菩薩の存在意義っていうのはみんなを引き上げることだから。その人の心が――言ってみればもともと菩薩は、つまりそのような菩薩に対して悪口を言う人も含めて、もう完全に菩薩の、いい意味での釣り針に引っ掛かってるんです。釣り針に引っ掛かってる。で、引っ掛かったらもうそのまま釣られてしまえばいいのに、悪しきカルマのある人は抵抗するわけだね。で、抵抗すればするほど痛い(笑)。抵抗すればするほど地獄の苦しみが待っている。うん。しかしそうじゃなくて、菩薩に対してほんとにいい心が目覚めれば、そこで菩薩はもちろん、なんていうかな、つまんないことは言わないよ。「おまえこの間まで悪口言ってたじゃん」――そんなことは当然言わないよね(笑)。「仏陀よ、わたしは心を入れ替えました」と。「どうかお救いください」――「おまえこの間まで何言ってたんだ」と(笑)。「そんなやつは救えん!」みたいに言わないよね(笑)。じゃなくて、救うことが望みだから、菩薩のね。だから、その人が心を入れ替えさえすれば、あとはもう引っ張り上げてもらうしかない。
もちろんその間の苦しみはあるよ、当然。すべてはカルマだから、その前に積んでしまったカルマを落とすまでの苦しみは生じるかもしれない。でもそれは生みの苦しみっていうか上向の苦しみだから。その状態からグーッと引き上げられてるときの苦しみだから。これはまあ、しょうがないっていうか、いい苦しみですよね。で、それによって素晴らしい果報が生じるんだと。
だからそれが菩薩であり、あるいはもちろん仏陀もそうだけどね。悪い心を持ったならば大変な悪い結果が生じるが、もし心を入れ替えるならば、それ以上の大変な良い果報が生じると。
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