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「解説・ナーローの生涯」③(4)

◎智慧と慈悲

 はい。それがひとつなんだけど、じゃあそうじゃなくてもうちょっと今度は難しい話になりますが、今度はこのティローの教えの部分をちょっといってみましょうね。はい。この教えが難解なわけですけども、

『この大慈悲の教えにおいて
 自己中心癖の頭蓋骨を
 無我と空性の木槌で砕かないのであれば
 どうしてグルを見出せようか。』

と。
 はい、まずこの前の段階で、このヴィジョンっていうかな、この出来事をちょっと振り返りますよ。自分の両親に悪さをしていると。で、さっきも言ったけど別の表現としては、ここは騙してる、あるいはペテンにかけてるっていうような表現も使われてる。そっちの方が実はいいかもしれない。
 ここで、この両親っていうものが表わしているものについて考えなきゃいけない。っていうのは、こういった密教的な教えっていうのは、特にこのマハームドラーっていうのは、ムドラーっていうのは象徴って意味があるわけだけど、いろんな秘密の象徴を使うわけです。で、それは一応、これが出てきたらそれはその象徴ですよっていうのが大体あったりするだね。あるいはそういうのがない場合もある。ない場合は本当にこう深く読み解かなきゃいけないんだけど、一般的に両親というのは――つまり父・母というのは、執着と嫌悪の象徴なんです。
 ちょうどこれはね、われわれが人間に生まれるプロセスもそうだよね。われわれが人間に生まれるときっていうのは、仏教とか密教の教えによると――これはみなさん聞いたことあるよね。バルドといわれる死後の世界で、わーってこう魂が浮遊してるときに、人間に生まれる人っていうのはね、まず大体その自分のものすごく好みのタイプの、男もしくは女が見えてきます。まあ、だから男として生まれるんだったら、女性が見えてくる。女性として生まれるんだったら男性が見えてくる。だから男性としていうならば、ものすごい自分のタイプのきれいな女性が見えてくるわけですね。で、それは潜在意識の死後の世界だから、もう抑制がきかない。例えば普段だったら――例えばM君が死んでね――まあ普段だったらM君がこういて、M君の超タイプの女性が裸でバーッって現われても、「おお、なんですかそれは」と(笑)。「わたしは修行者ですから、あんな糞尿の袋には関わりません」と(笑)。こう言うのかもしれないけど、でもそのときはそうじゃなくてすべての表層意識が吹っ飛んで、潜在意識の、つまり夢みたいな世界だからね。バーッて入ってるから、もう自分の超好みの女性がバーッて裸で誘惑してきたりしたら、うわーってもう何も考えることなく突っ込んでしまうわけですね。で、わーって感じで突っ込もうとすると、その自分の最も執着する愛しい女性が、全然違う男といきなりセックスを始める。当然、そのライバルである男に対して、ものすごい怒りと嫉妬心が湧き上がるわけですね。「なんだあいつは!」と。うわーってメラメラと燃えると。このものすごい執着と嫌悪のエネルギーに引きずられて、その女性の子宮に入ってしまう。つまりその自分が愛着していた女こそがお母さんであり、嫌悪していた男性こそがお父さんだったってことになるわけですね。男性の場合ね。だから女性は逆になるわけだけど。
 で、これが人間に生まれるプロセスといわれるわけですけども、これで象徴されるように、この場合は――だから男として生まれる者にとっては、お母さんっていうのは愛着の象徴であり、お父さんっていうのは嫌悪とか怒りの象徴なんだね。だからここで出てくる両親っていうのはその象徴と考えてもいい。
 はい、そして、この男は両親をペテンにかけようと、騙そうとしているわけです。そしてこの詩を読むと、「自己中心癖の頭蓋骨を無我と空性の木槌で砕かないのであれば」っていうような表現が出てくる。はい、この辺の、点と点を結んでいくと何が浮かび上がってくるかというと――いいですか――執着というお母さんと、嫌悪というお父さんから、自己中心癖という子供であるわれわれが、この世に誕生しているわけですね。そしてわれわれはその執着という母と怒りという父に、温かく育てられながら、この世で生きていると。つまりこの執着という母と怒りという父から逃れない限りは、われわれはこの輪廻という家から抜け出すことはできない。よって、さっきから言ってる――このね、元の経典には騙すとかペテンにかけるっていう表現があるわけですが、つまりここで言ってるのは、両親をペテンにかけなきゃいけないと。つまりわれわれはこの執着と怒りっていう感情の庇護の下に、この輪廻でぬくぬくと生きてるわけだけど、うまくこの執着と怒りという両親をだまくらかして、この輪廻という家から脱却しなきゃいけないんだね。
 はい、そして「自己中心癖の頭蓋骨」ね。つまりわれわれはその執着と怒りから生まれた自己中心性をもった子供なわけだけど、その執着と怒りから生まれたこのエゴに満ちた子供であるわれわれのね、この頭蓋骨を打ち砕かなきゃいけない。じゃあそれは何によって打ち砕くんだと。大慈悲の教えにおいて、無我と空性の小槌で打ち砕くと。
 これもね、すごく象徴的な意味がある。というのは、ここで出てくる二つのワード、大慈悲、そして無我と空性――まあ無我と空性って同じだけども――大慈悲っていうのがひとつ、そして無我と空性っていうのがひとつ。これもピンと来る人がいるかもしれないけども、別の意味で父と母にたとえられるんです。
 これね、ちょっとヨーガと密教で逆になる場合があるんだけど――まあ密教とか仏教でいうと、お母さん――これを空性とか無我として例えるんだね。例えばみなさんもよく知ってる般若経って「プラジュニャー・パーラミター」っていうわけだけど、あれはプラジュニャー・パーラミターっていう女神としてよく描かれたり、あるいはね、バガヴァティーとかいうんだね。バガヴァティーっていうのは、至高者のことをバガヴァットとかバガヴァーンとか言うわけだけど、その女性形ね。なぜかその智慧っていうのは、女性として表わされるんだね。でもうひとつ慈悲――これがまあ方便とか慈悲とか言うわけだけど、これは父とか男性形として表わされる。だからよく密教とかでは、この智慧と慈悲っていうのが母と父として表されるんだね。
 つまりこれはかなり複雑になるけども――ちょっとまとめますよ――われわれは、執着という母と、嫌悪とか怒りという父のもとに生まれてきた、自己中心性という愚かな息子であると。ね。そしてこの世界から脱却するためには、自分の愚かな自己中心性という子供の頭蓋骨を打ち砕かなきゃいけない。そしてうまくその執着と嫌悪という父母をだまくらかして、この輪廻という家から逃れなきゃいけないと。そしてわれわれが真に父母とすべき存在、この輪廻から自分を救ってくれる本当の意味でのお父さんお母さんっていうのは、智慧と慈悲なんだ――ということだね。あるいは空性の智慧、あるいは無我というお母さんと、慈悲というお父さんなんだっていうことですね。それがひとつのメッセージっていうかな。
 当然これは、ナーロー自体がまだこう乗り越えていない部分の教えではあるわけだけど、さっきから言っているように、ナーローっていうのはわれわれからいったらこの時点でもう相当な大聖者になっています。それでもまだ乗り越えていない小さなポイントがあるんだね。だからわれわれからするともちろん全然乗り越えていない。そういうところはね。
 でもまあ、もう一回言うけど、ナーローのレベルとは違うんだが、われわれ自身のね、レベルにも当てはめて、こういう詩っていうのはいろいろ考えてみたらいいと思います。

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