解説「菩薩の生き方」第七回(7)
はい、じゃあ、今日はだいぶ時間が過ぎたので、ここで終わりにして、最後にまた質問があったら質問を聞いて終わりにしましょう。
はい、じゃあ、今日の話と関係があってもなくてもいいので、何か質問ある人いますか?
(N)『クリシュナ物語』とか、『ラーマーヤナ』で、至高者をさげずむ一節とか、非難したりとか、そういうのは読まない方がいいですか?
ん? 例えば?
(N)ええと、『クリシュナ物語』だったら、ルクミニー王女と結婚したかったシシュパーラが、クリシュナをすごく非難するセリフがあるんですよ。そういうの読むのも恐ろしいっていうか(笑)、怖いんですけど。
それはいいことだね。まあ、それはね、まず一つの答えから言うと、当然それは、元々は読んでかまいません。読んでかまわないというのは、つまりその大きな理解のもとで言うならば、まあ、まさに、ラーヴァナとかカンサとかがそうだったように、彼らも一つの役割を与えられていて、で、それは、なんて言うかな、完全に完結している『クリシュナ物語』だったら『クリシュナ物語』っていうその完結している物語の中での話だから。それは、それがどういう意味かは別にして、そこである人物はクリシュナに悪態をつかなきゃいけなかったし、あるいはある人物はクリシュナを否定しなきゃいけなかったっていうか。しかしその背景に流れている思想としては、そのような人たちもその役割をなしたことによって、実際には救われているっていう。実際には徳を積んでいるというかね――というもののもとに全て組み立てられているので。
だからわれわれの中にクリシュナだったらクリシュナへの完全なる信があるならば、「ああ、このようなリーラーとしてここでクリシュナは罵倒や、否定される言葉を受けた」と。「しかし本当に真のクリシュナの本性を知る者は、そのようなものには惑わされない」という思いでそれを読むならば、全くそれはかまわないんだが――ですよ、それは基本の話ね。しかし例えばN君とかが、実際にそれを読むのも嫌だと、読むのもちょっと怖い気がするっていうのは、それはそれで素晴らしいっていうか、いいことだね。
わたしも実際にはもちろんそういうのは好きではない。好きではないっていうのは、そうですね、まあ、リアルにというか現実的に言うと、そのときのその意識状態にもよりますけどね。意識状態っていうのは、今言ったように、「あ、すべてはリーラーなんだ」と。「すべて実は完璧な物語なんだ」っていう気持ちのときは、そういうのも――あ、わたしの場合ね――そういうのも楽しく読めるわけだけど。「ああ、シシュパーラ馬鹿なこと言っているな」と(笑)。「しかしこれも一つのリーラーとして、役割として言っているんだな」と。うん。「これによってよりクリシュナの完全性が引き立つんだな」とかいう――つまり一つの、なんて言うかな、物語のシナリオを読んでいるような感覚で読めるわけだけど。
でもわたしが例えば別のムードにあるときは、やっぱりN君みたいに――別のムードっていうのは、もっとこう入り込んで、入り込んで、「ああ、クリシュナよ!」っていう気持ちでいるときは、やっぱり物語とはいえ読みたくない。そういう場面ってのはね。だからそれは飛ばしたりする(笑)。なんか罵倒の場面になったら、「はい、ここはいいや」って感じで飛ばして(笑)。
あと教学のときとかもそうですよね。例えば合宿修行の教学のときとかにさ、声を出してクリシュナを罵倒するところ読んでいると。で、そのあと逆転するところまで読めばいいけど、そこで終わっちゃったら悲しいよね(笑)。
(一同笑)
あのクリシュナめ! あのクリシュナがどうのこうのって言っているところで、「はい、教学終わってください」だと、「ええっ!?」っていう(笑)。
(一同笑)
だから、教学とかで声に出してしっかり読むときとかは、わたしもね、まあいいやっていう感じで飛ばすときもある。うん。でもそれはだから自然にそういう思いで、「ああ、こういうけがれた言葉は、まあ物語といえどもわたしは口にしたくない」と。うん。読みたくもないって思うんだったら、それはその個人的思いは素晴らしい。それはそれでOKです。しかしもう一回言うと、さっき言った、「神への否定とかのけがれた書き込みは読むな」っていうのとは、それはちょっと違うね。つまりネットとか、あるいはいろんなところで神を否定している人は別に、リーラーを与えられてやっているわけじゃないから。悪いカルマでやっているわけだから。それによってわれわれの中にまだあるかもしれない悪いカルマが引っ張られるかもしれないっていう意味なんだね。
でもわれわれが例えば『クリシュナ物語』や『ラーマーヤナ』にあるような悪人のことを読んでも、本質的には、われわれの悪いカルマが出てきたりはしません。逆にそのリーラーに触れて、その世界っていうかな、物語の世界とどんどん縁が強まることがあるかもしれない。
しかしもう一回言うけども、われわれの自分の正直な、素直な気持ちとして、「あ、こういうけがれた、神を否定する言葉とかは、物語の中といえども読みたくない」っていう思いが出てきたら、それはそれでいいことなので、それは自分の気持ちにしたがってかまわない。
(N)ありがとうございました。
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