解説「菩薩の生き方」第一回(3)
【本文】
第一章 菩提心の賛嘆
――オーム、ブッダに帰依いたします――
【本文】
もろもろのスガタと、仏子(菩薩)と、法身と、すべての敬うべき師主たちの前に、恭しくひれ伏して、仏子の律儀への趣入(すなわち菩薩行の実践)を、聖典にしたがって、私は簡単に説こう。
ここに(経典にないような)斬新なことは何も述べられない。また私には著作の才能もない。ゆえに、私は他人のためを考慮せず、もっぱら自己の心を(菩薩行の実践によって)薫じようと、これを作った。
これによって、私の清浄な心の流れは、善を実現しようと強く増進する。ところで、私と同じ性質の他の人が、これを見るならば、これはまたもって効用を生ずるであろう。
【解説】
これは序文の部分です。
ここでシャーンティデーヴァは、謙遜をしていますね。しかしこの書全体を見るならば、もちろんシャーンティデーヴァが、多くの人々のために、この書を書いたのは間違いのないことです。しかしこのような書き方でこの書が始まるところに、シャーンティデーヴァの謙虚さとともに、ユーモアを感じますね。私は才能がないので、自分のためにこの書を書いたんだけど、まあ、自分と同じ性質の人がいたら、少しは役立つかもしれないですね、みたいなことを言っているわけですね(笑)。
ここで少し言葉の解説をしますと、スガタというのはお釈迦様の呼び名の一つで、普通は「善逝(ぜんぜい)」と訳されますが、善逝といってもよくわからないので、あえてスガタとしました。ここでは、「もろもろの」と言っているので、お釈迦様だけではなく、この宇宙に遍在する多くのブッダ方のことを言っているのでしょう。
はい。これは序文の部分ね。シャーンティデーヴァの非常に謙虚な書き出しで始まるわけですね。「わたしはその、本を書く才能もないし、ここに書くことも別に特別なことを述べるわけじゃないよ」と。「これは自分のために書いたんですよ」と。「自分の心を変えるために書いたわけだけども、まあ、でも、同じようなタイプの人がいたら役立つかもしれませんね」ぐらいのことを言ってるわけだね。
「ここに(経典にないような)斬新なことは何も述べられない。」――これは真実です。つまりシャーンティデーヴァってもちろん、別に新しいことを言ってるわけじゃない。つまりそれまでのお釈迦様の教え、あるいはそれに続く大乗仏教の教えを言ってるんですね。しかし何度も言うけども、内容はもちろんそうなんだけど、その説き方が非常に素晴らしいんだね。あるいはエッセンスがちゃんと分かってるっていうかな。だからその意味でこの『入菩提行論』は非常に素晴らしい。
何度もね、繰り返すけども、確かにこの『入菩提行論』は、それまであった仏教経典と、内容的にはあまり変わらない。あるいは現代でも多くの人が仏教の本を書いてる。まあ内容的には同じようなことを言ってる。ヒンドゥー教もそうですけどね。ヒンドゥー教も、もちろんサナートダルマといわれる本質的な教えは変わらないから、いろんな人がいろんな教えを説いてるわけだけど、本質はあんまり変わらないよね、もちろんね。しかし大事なのは、繰り返しますが、エッセンスがなんなのか分かってるかどうか、そしてそれを独りよがりではなくて、ほんとにわれわれの心にズバッと入るように説けてるかどうかなんだね。で、繰り返すけども、ほとんどの歴史的な本、あるいは現代日本でも本屋とかにあふれかえってる本は、それがない。それがないっていうのは、エッセンスがないし、あるいはエッセンスがあったとしても、まあ説き方があまり良くないっていうかな。あまり美しくなかったり、面白くなかったり、あるいはわれわれの心にあまり響かない。
で、――繰り返すけどね、いやあ、仏教は難しいんだよと、ヒンドゥー教は難しいんだよっていうのは、これは完全に言い訳です。ね。言い訳っていうか逃げ口上っていうか。そんなことはないんだね。そんなことはないっていうか、ほんとの意味で、なんていうかな――これはラーマクリシュナの言葉を思い起こさせるんだけど、ラーマクリシュナが繰り返して言うのは、みんなが教師になりたがると。で、これは現代のスピリチュアルとかそうですけどね。SNSとか見てても、「はい、なんとかエネルギー伝授」とかいうのがよくあるわけだけど(笑)。あと例えば、たかだか、なんか数日間、なんか講習受けたとかいう人が、なんとかのエネルギーを与えられるようになりましたとか言ってよく書いてるわけだけども、みんなが教師になりたがる。あるいはみんながそういう役をやりたがるわけだけども、ラーマクリシュナの言葉を使うとね、ほんとの意味で、至高者、神から、その任務を受けた人でないと、人の心を変えることはできない。で、逆に言うと、その、ほんとの意味で神から任務を受けた人っていうのは、まさに自然にね、あるいはほんとに、みんなの心を変えるようなかたちで教えを説くことができるし、あるいはその言葉に力が入るんですね。
だからまあ、そういう観点からいえばそうなのかもしれない。つまりこのシャーンティデーヴァにしろ、あるいは、もちろんほかにもいますけどね、ほんとの意味でわれわれの心を変えてくれる、あるいは仏教やヨーガのエッセンスをズバッとこうわれわれに伝授してくれるような、本、あるいは教えを説く人っていうのは、まあ少ないわけだけど、ただ歴史上、ポイントポイントで登場するんだね。
だからわたしはいつも言うけども、あまりやっぱりその辺のいろんな本を読まない方がいいね。われわれにとって、ほんとに心を変えてくれるような、あるいは利益のある、本というか人というか、それはやっぱり限られてる。まあ、もちろん縁とかがあるから、わたしはこれは結構ピンとくるけどほかの人はこないとかね、そういうのはあるけどね。そういうのはあるけども、それも含めて、本物をつかめばいい。
ここにいる人はそういう人はあんまりいないかもしれないけど、ちょっとこう、教えを学びたいと思って、いろんな教えに手を出して、ちょっとわけが分かんなくなる人が結構いるわけだけど(笑)。あるいは例えば、ね、わたしは昔そういうところあったけど――昔ってほんとに昔ね、仏教とか学び始めたころに、いろんな難しい仏教の論書とかいっぱいあるから、そういうのを古本屋とかで買ってきて、研究すると。はっきり言ってね、今考えるとですけど、苦痛でした(笑)。苦痛ね。前も言ったけどさ、そういう仏教経典とか研究してるときに、週に一回『ジャンプ』とか読むんだね(笑)。『ジャンプ』の方が面白くて(笑)。で、瞑想するとドラゴンボールが出てくるっていう状態だったんだけど(笑)。でもそれはそのときはわたしは、いやあ、やっぱり勉強っていうのは大変だと。だからちょっと大変だけども頑張って仏教の本を学ばなきゃいけないと思ってたんだけど、やっぱりそれは間違いだった。うん。それははっきり言ってその本が悪い(笑)。こんなこと言うと傲慢な感じだけど(笑)。
(一同笑)
でもほんとなんですよ。わたしの気持ちっていうか経験を言うとね、いいですか、例えば、まあ名前は出さないけども、ほんとに仏教で大事といわれてる古典的な経典や論書をわたしはいっぱい学びました。例えば五冊、十冊、十五冊と、徹底的に研究して……もう難しい書き方がしてある。例えば、なんか、ほんとにね、無駄なんじゃない?って思えるぐらい難しい書き方してるんです。例えば、え、これどういう意味? 日本語としてちょっと変だなと。どういう意味だろう、どういう意味だろう――何度も繰り返してページを戻ったり進んだりしながらやって、あ、これが言いたかったのかと。じゃあ、なんで最初からこういうふうに書かないんだっていうのがあるんだね(笑)。最初からこう書けばいいじゃん、もっと分かりやすくこう表現すればいいじゃん、っていうのがある。なんかわざとなのか分かんないけど難しく表現してある。で、それをかみ砕いてかみ砕いて自分の中で理解して、あ、つまりこの経典は、これとこれとこれが言いたかったのかと。素晴らしいな、確かにこの経典が言いたかったことは素晴らしい。なるほどと。わたしはこれを一カ月ぐらいかけてようやく理解できたと。でもそれが、『入菩提行論』読んだら三行ぐらいで表現されてるんだね(笑)。「あれ? 十秒で分かっちゃった」と。「おれの一カ月なんだったの?」と。ね(笑)。こういう感じがあるんだね。だから――でもこの場合は、まだ時間がかかったにしろその中にエッセンスが含まれてるからいいよ。だからこれは、エッセンスはあるけども、表現がまずいっていう場合ですね。で、巷の本の中にはエッセンスもないのもあるから。つまり単純に、仏教の表面的な部分だけを例えばまとめて、仏教ですよって出してる本もある。こんなのははっきり言って百害あって一利なしです。あんまりメリットはないけどまあ読んだらいいんじゃない?っていうんでもない。はっきり言って害です。
ちょっと強烈な言い方になっちゃうけどね。読むだけ仏教から遠ざかるような仏教の本もたくさんあります、現代ではね。だからあんまり読まない方がいい。自分で信頼してる聖者とかの教えだったらいいよ。「わたしはこの聖者が好きだから読むんだ」っていう、自分で確固たる思いを持って読むんならいいけども、よく分かんないのをこう、ちょっと仏教知りたいなと思っていろいろ読み漁るのはあんまり良くないね。どんどん真理から遠ざかるかもしれない。
はい。だからちょっと話を戻すけども、シャーンティデーヴァは、まあ、ちょっと謙遜して言ってるわけですけども、実際には、もう、なんていうかな、歴史的な、非常に有益なものをここで説いてくれたわけだね。でもこれは、ほんとにシャーンティデーヴァが言ってることは真実かもしれない。つまり、自分のために最初はまとめたのかもしれないけども、その自分のためっていうその意味がね、つまり、最もエッセンスを分かりやすく、そして自分の心でほんとにそれが理解できるようにそれを咀嚼したっていうかな。それをわれわれのために残してくれたっていうことですね。
はい、じゃあだいぶもう時間が過ぎちゃったので、ちょっと、ここまででね、今回は終わりにして。はい。じゃあ、質問がもしあったら質問を聞いて終わりにしましょう。
(S)すみません、せっかくなので、質問といいますか、ちょっと感じたことなんですけども。例えばラーマクリシュナがMっていう人と会ったときに、「あんたの奥さんはどんな人だ?」とか言って、Mが「いや、うちの妻はこういうものでして」って答えると、ラーマクリシュナがちょっと厳しい表情で怒ってそのエゴを破壊するっていうことがありましたね。例えば今、先生のお話を伺ってて、シャーンティデーヴァの役目っていうのはそういうナーランダーのそういう人たちの高慢を打ち砕くっていうことで、そこに身を置いたということなんですけども。例えば『入菩提行論』の最初の方の「もろもろのスガタと、仏子(菩薩)と、法身と、すべての敬うべき」って始まってるところですごく謙虚に、自分のためにこれを記したんであって、自分と同じ性質の人がいたら少しは役立つかもしれないですねっていう言い方をしたっていうのは、やっぱり一つのトリックっていうか、人の心を覆すっていうか、そういう始まり方をしてるもんなんでしょうか? ちょっと考え過ぎかもしれませんが。
ん? どういうこと? もう一回言って(笑)。
(S)ごめんなさい(笑)。なんて言うんだろう、そういう高慢な人たちの気持ちをくすぐるというか、そういう感じで、わざわざこういう謙虚な言い方をしているのかなというか……そういうわけでもないんですか?
ああ、でも確かにそれはあるかもしれないね。つまり、もうこの境地の人っていうのは、なんていうかな、そういう意味で言ったらすべてがリーラーっていうか、すべてがもちろん神や仏陀の意思なわけだけど、それを、ある言い方をすれば、すべてが意図があると思ってもいいと思う。それを自然にやってるのか考えてやってるのかは別にして、当然すべてに意図がある。つまりこのように謙虚な言葉で始めるのも当然意味があるのかもしれない。これもだから、論書という意味で確かにナーランダー的なことを――まあ多分Sさんが言いたいことはそういうことだと思うんだけど、ナーランダーで起こした奇跡を、この論書そのものでやろうとしてるのかもしれないよね。つまり経典の最初、最初何も知らない人が読み始めたら、「わたしは著作の才能もない」とかね、「斬新なことも書いてないよ」っていうのを呼んだら、「あ、この人あんまり知らないんだな」と(笑)。「このシャーンティデーヴァってあんまりなんか、才能もないし斬新なこともないみたいだな」と。「でもわたしは結構教えを学んでるから、シャーンティデーヴァさんが言うことは理解できるだろうから、まあ、ちょっと読んでやろうか」みたいな感じで読むかもしれない。読んでたら、「うわ、すげー!」ってなって(笑)、「おれが間違ってた」ってなることを狙ってる可能性はあるよね。でもそれはまあ、一面でしょうね。そういうのもあるだろうし、あるいはほかのタイプの人にはほかの作用を狙ってる可能性もあるよね。
わたしとしてはもちろん、先入観はなかったけども、『入菩提行論』っていうのがすごい本だっていうのは知ってたから、これを読むときに、ここで例えばそういう気持ちにはならなかったけども、まあ一つの、あるタイプの人に対してはね、見本みたいな感じにもなってくるよね。見本っていうのはつまり、こういうふうに謙虚な姿勢っていうか、あるいはへりくだった姿勢っていうか、あるいは自分を高慢にひけらかさない姿勢っていうか、それが大事なんだなっていう見本にもなってくれるだろうし、あるいはさっき言ったように、そこでトリック的に人の心をね、いったん慢心を引き出しといて、ズバッとこう破壊するっていう意味もあったのかもしれない。まあ、それはいろいろあったんだと思います。
(S)なるほど。分かりました。
これはさ、この本だけじゃないんだけど、まあ、もちろん『バガヴァッド・ギーター』もそうだし、いろんな、本当の意味での経典、聖典っていうのはさ、やっぱり不思議な感じがあるんだよね。不思議な感じっていうのは、やっぱり神の道具として使われてるっていうかな。神の道具としてっていうのは、いろんな意味でわれわれに作用してくれるんだね。例えばわれわれがほんとに、心にちょっと変化が必要なときとか、あるいは心がちょっとこう駄目になってるときとかに、その経典のね、一節が、ズバッとわれわれの心を変えてくれるとか、あるいはわれわれが修行が進むごとに、全然違う意味でその経典の内容がわれわれの心に響いてくるとか。
で、その経典っていうものが、つまり、ちょっとまた大まかな話になっちゃうけども、これ、よく言うように、さっきのラーマクリシュナがね、Mに対して言った教えとして、わたしもよく使う比喩としてね、グルというのは、つまり修行上の師匠というのは、この迷妄の壁に一つだけ開いた穴ですよっていう表現をよくする。穴ですよと。言ってみればただの穴なんだけど、その穴を通してのみ、われわれは向こう側を見ることができる。つまり、真実の世界を垣間見ることができると。で、壁――この壁っていうのは、壁にいろんな模様が描いてあったり、色が塗られてたりする。で、われわれはその壁の、なんていうかな、ただ描いてあるだけのものを真実だと思ってるわけだけど、そこに一個だけ穴が開いてる。で、この穴っていうのはさ、その壁のいろんな模様の中に穴があったら、それをわれわれは穴とは思わないんだね。模様の一つと思います。あるいは汚れと思います。汚れか、またはなんか丸い模様が描いてあるな、くらいにしか思わない。しかし実は穴なんです。それのみが、われわれにとっての真実への入口なんです。
つまり、何を言ってるのかっていうと、われわれは、いつも言うようにね、今、ドラッグをやってるようなもんでね、ドラッグをやっていろんな幻影を見てるようなもんです。でもまさにゲームみたいな感じで、この中に、真実への入り口がちょっと混ざっています(笑)。混ざってるんだね。で、これが、まあ、よく言われる言い方をすると、ヴィディヤーマーヤーっていうやつですね。ヴィディヤーマーヤー。つまりマーヤーっていうのは普通はアヴィディヤーマーヤーっていって無明の夢なんだけど、この無明の夢の中に、光の夢がちょっとだけ混ざっています。で、これがわれわれの世界でいろんな展開をしだす。で、その光の夢の集約されたものが、まあ、皆さんにとってのグルですよっていう言い方をするんだね。でもそれだけじゃなくて、この光のマーヤーは、皆さんの人生にいろんなかたちで混ざってくるんです。で、そういう意味でいったらこの経典、経典の中でこの『入菩提行論』、あるいは『バガヴァッド・ギーター』とか、聖なる重要なエッセンスを含んだ経典っていうのは、経典のかたちで現われたヴィディヤーマーヤーなんだね。つまりわれわれにとって、われわれを目覚めさせるマーヤーのエネルギーが、経典という形で現われる。で、われわれの人生にいろんなかたちで介入してくるんですね。パッとこうそれを読んだときにわれわれがパッと変わるとかね。だからそういう意味も、こういった聖典にはある。
だから、今日わたしが伝えたかったことっていうのは、ちょっと、なんていうかな、言葉にはしにくいけども、まあ、そういうことです。つまりこの迷妄の人生っていうのは、お釈迦様が何度も言ってるように、苦であって幻であって幻影であって夢みたいなもんだと。でも、ちょっと本物が混じってるんです。ね。それをつかまなきゃいけない。本物が混じってると。さっきさんざん、本とか経典の話もしたけども、それも同じで、はっきり言うと今本屋に売ってるようなヨーガ系とか仏教系の本なんて、ほとんど価値ありません。ほとんどがアヴィディヤーマーヤーです。このアヴィディヤーマーヤーの中にちょっとだけ本物が混ざってます。ね(笑)。ちょっとだけ本物が混ざってる。で、それがわれわれの人生に介入してくる。で、それをわれわれはつかまなきゃいけない。うん。
これはもちろん、経典だけじゃないけどね。われわれの心に浮かんでくる、ハッとした思いとか、全部そうだけども、それをわれわれはつかまなきゃいけない。つかんで、それをわれわれの心を変えるエッセンスとしてちゃんと使わなきゃいけない。
で、まとめるけども、この『入菩提行論』こそは、わたしの人生でね、わたしが発見した中でも、最高のヴィディヤーマーヤー的聖典っていうかな。「あれ、発見しちゃった!」と。「え、こんだけエッセンスが凝縮したものを、神様がなんか置き忘れたんじゃない?」みたいな感じで(笑)、「これはもう、発見した!」みたいな感じで考えてたのが、わたしにとってのこの『入菩提行論』なんだね。だからまあ、カイラスの初期のころから、皆さんにはこれをすごく勧めてたわけだけど。
何度も言うけど、ちょっとわたしが言うと傲慢な感じで聞こえるかもしれないけど、皆さんは非常に徳がある。日本でこれだけ『入菩提行論』を学んでるのは皆さんぐらいです(笑)。ここまで学んでないから。ここまでプッシュしてないから、みんなね(笑)。まあ現代ではさ、さっきも言ったように、チベット系のグループとかでも学んでるかもしれないけど、ここまで多分プッシュしてない。それからわたしが知る限りでは、今日本で入菩提行論が載ってる本は、あまりいい訳のものがない。だからそういう意味では皆さん徳があると思うね。まあ、あるいはそれだけの法縁があるっていうか。
もちろん、カイラスで出してるっていうかプッシュしてる教えは他にもたくさんあるので、皆さんも大変かもしれないけども、でも何度も繰り返すけども、『入菩提行論』はかなりエッセンスを凝縮したものなので、ぜひ皆さんの、まあ座右の書としてね、もう何度も何度も、心に根付かせるように読み続けてもらいたいと思うね。
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