解説「王のための四十のドーハー」第五回(2)
だからまあ、六ヨーガとかの勉強会でもあったけども、密教の戒律で、女性を誹謗してはならないっていう戒律がある(笑)。つまり逆に言うと、原始仏教っていうのは、あるいは原始的なヒンドゥー教っていうのは、結構女性を誹謗するんです(笑)。誹謗っていうと変だけども、女性はこういう精神的なけがれが強いとかね、男性に比べてちょっとこういう部分が強いので、ちょっとそれは問題であるとか、そういうことがヒンドゥー教とか仏教の原始的な教えではたくさんあるんです。で、もちろんそれは、原始仏教とかでも多くの偉大な女性の解脱者がいるから、それはもちろん乗り越えられる問題ではあるんだけど、でもまあ、スタートラインが非常に女性は劣ってるよっていうことをよくいうんだけども、でも密教ではそうじゃないんです。女性が持ってるその女性的エネルギーっていうかな、シャクティといわれるものが非常に重要であると。で、それが、われわれを助ける女性的な女神としてわれわれの前に現われる場合もあると。だからその女性っていうものを誹謗してはいけないっていう戒律がわざわざこう設けられてるんです。それを破ったら、なんていうか、もう密教の道から外れるぞ、ぐらいの感じなんだね。だから女性の女神とか女性的エネルギーっていうのは非常に重要になってくる。
だから密教においては、いろんな聖者の話で、いろんな場面で、ダーキニーが登場するんだね。そのダーキニーっていうのは、さまざまなレベルのダーキニーがいます。例えばミラレーパの話に出てくるような、ちょっと劣ったダーキニー。劣ったっていうのは、悪霊的なダーキニーね。これもダーキニーです。いろいろ人の邪魔をしたり修行者の邪魔をしたりする。でも結果的に邪魔をしたりすることで修行を助けたりもするんだけど。こういうダーキニーもいる。あるいは天界的なダーキニー。天の、まあ女神的なダーキニーね。これはカルマはとても素晴らしい。しかしまだ悟ってるわけではない。こういうダーキニーもいる。
じゃなくて、もうちょっと高い、菩薩のダーキニーや、解脱をしたダーキニーもいます。つまり解脱した、悟ったっていうことは、ある意味自由自在なんだね。それはダーキニーの姿を取ろうが男の姿を取ろうが自由自在なわけだけど、その女性的な姿を取る、解脱した存在もいます。
で、そうじゃなくて、最高のダーキニー、これはまさに仏陀そのものです。つまり仏陀そのものが、今言ったように、女性的な現われをする場合があるんだね。つまり仏陀っていうのはさ、いつも言うように、本来は、なんの特徴もないんです、ほんとは。つまり完全にすべてに遍在してるので、特徴がない。しかしわれわれになんらかの良い影響を与えるために、一つの特徴を持つんだね。例えば阿弥陀如来とか、あるいは大日如来とか。まあ、あるいはヒンドゥー教でいったらクリシュナであるとかシヴァであるとか、なんか全然違う特徴を持つ。それは、本来は特徴がない、本来は透明なだけの存在が、衆生にいい影響を与えるために、つまりそのある人にはこういうスタイルの方が利益がある、ある人にはこういうスタイルの方が利益がある、っていうことで、縁のある人々に合わせてね、さまざまな姿を取るんですね。で、その中でそのダーキニー、女性の女神の姿を取る仏陀もいるんですね。
で、このサラハの目の前に現われたダーキニーは、まさに仏陀そのものだといわれます。仏陀そのものが、ダーキニー、つまり女性の姿をして現われた。で、サラハっていうのはほんとに、今も言ったように、ほとんどもう完全な悟りを得る直前だったわけだけど、その最後の最後にこのダーキニーと出会い、そして最後の教えを受けて、完全な悟りを得るんですね。
で、完全な悟りを得たサラハは、その後どうしたかというと、このダーキニーと一緒に、火葬場に住むんです。
これも皆さんは理解できないかもしれないけど、密教においては、火葬場っていうのはとても大事なんだね。ここでいう火葬場っていうのは日本とちょっと事情が違うんだけど、つまりインドっていうのはさ、まあ、いつもここでも言ってるように、輪廻転生が前提にあるので、お墓もあまりありません。つまり焼いて終わりなんだね。で、焼いたものはもちろんガンジス川に流すとか、そういう風習なわけだけど。つまり火葬場イコール、まあ、日本のイメージでいうと墓場みたいなもんです。つまり火葬場っていう場所があって、死んだ人はそこに連れていかれてね、例えば現代でいうと有名なヴァーラーナシーの火葬場とかあるけども、死んだ人はそこに連れていかれて、で、焼かれると。あるいはもちろんね、人によっては焼かれない場合もあるんです。焼かれない場合はいくつかパターンがあって、例えば伝染病で死んだ者は焼いてはいけないとかね、まあ、いろんな決まりがあるんだね。あと焼くときにお金が必要な場合があって、その場合、そのお金を持ってない人も焼かれない。だからそのまま死体が置かれちゃうんだね。で、その場合は自然に腐っていくというか。
つまり、もうほんとに、普通だったらみんなが忌むべき、もうあそこには近寄りたくないと、ほんとにもう死体とか、あるいは骨とかが散乱してるような、で、それを、ジャッカルとかね、そういう獣たちが食べに来るような、そういうような非常におどろおどろしい場所なんだね。で、この場所こそが、密教においては最高の瞑想の場所といわれる(笑)。なんでなんだっていうのはあんまり考えなくていいんだけど(笑)。でもそういうふうにいわれています。そここそが最高の聖地っていわれるんだね。うん。だから昔のインドの密教行者とかは、なんていうかな、火葬場巡りとかするんだね(笑)。インドの大きな火葬場を巡って、こことここに行ったと。で、すごい経験をしたとかいって(笑)、そういうことが書いてあって。火葬場を求めてこう行くようなところがある。
これは実際はものすごく深い意味があるんだけど、深い意味じゃなくて浅い意味で言うとね、これは実は似たようなことは原始仏教時代からやってるんです。つまり、死というものすごいリアルをね、リアルな現実を、まあ、垣間見ることのできる場所っていうかな。うん。つまりそこら辺に死体が転がってると。で、その場所で瞑想するっていうことは、まあ、もちろん不浄観とかにもつながるし、あるいは無常観にもつながるし、あるいは、そうだな、心が引き締まるかもしれない。これはまあ浅い意味ですね。
でももっと深い意味もあります。しかし浅い意味でいっても深い意味でいっても、非常に利益があると。まあ、特に日本人っていうのは、あまり、インド人とかあるいはまだ発展途上の国と比べて、あまり死を間近に見る機会がない。あるいは死どころか、なんていうかな、汚いものとか、あるいは悲劇とか――ほんとの悲劇ね――ほんとの悲劇とか、汚いものとか――つまりこの世っていうのはすべて浄と不浄があって、あるいは楽と苦があって、生と死があってってあるわけだけど、日本人っていうのはさ、なんていうか、生・楽・浄に偏り過ぎてるんだね。もう一方の面を見えないような、見せられないような世界でずっと生きてるから、ほんとはわれわれにとってはそういう修行ってとてもいいんだね。だって、生があるっていうことは必ず死はある。浄があるっていうことは必ず不浄があるわけです。それは当たり前の世界なんだね。
インドとかに長く旅したことがある人は分かると思うけどね。日本に帰ってくると、もう神の国のような(笑)、もうすべてが整えられていて、すべてが、なんていうかな、きれいに清潔に整えられ、もう嫌な面っていうのは全く見せられないような。まあ、それはもちろん日本人の持ってる徳なんだけどね。徳なんだけども、それによって、この世の真実っていうものをちょっと見せられなくされてるようなところがある。
だからといって皆さん、墓場に行って瞑想しなくていいですよ。まあ墓場に行く必要はないけども、そういう心構えだね。そういうような心構えを常に持ってたらいいと思います。
-
前の記事
解説「王のための四十のドーハー」第五回(1) -
次の記事
解説「王のための四十のドーハー」第五回(3)