解説「母なる神」 第五回(1)
2012年6月13日
解説「母なる神」 第五回
はい、『母なる神』の続きですね。
これはいつも言ってるように、非常にいい内容で、しかも、なんていうかな、エッセンスがとても盛り込まれた内容なので、まあゆったりと、瞑想とかも入れながら、勉強会をね、進めていきたいと思います。
それからね、この『日々修習する聖者の智慧Ⅱ』の『母なる神』のところだけ見ると、そうですね、三十五ページぐらいなのかな。経典としては別にそんなに長くないね。短いものですね。で、加行とかで『母なる神』を読むように入ってる人もいるでしょうし、入ってない人も、いい内容なのでよく読んでる人がいるかもしれませんが、これはもちろん、本として、普通の本と同じように、「ああ、なるほど。面白いな」って読んでもいいんですけども、もう一つおすすめは――まあ、これよく聞くんだけど、「ある部分は分かるけどある部分はよく分かんない」という人もいるでしょうけども、それは構わないので、詞章のように、あるいはお経のように読んでください。これはそういう力もあると思います。つまり意味が分かっても分かんなくてもいいので、とにかくワーッてこう何度も、最後までいったらまた最初からっていう感じで。もちろんやらなくてもいいけどね、やりたい人はそういう感じでお経のように、詞章のように、何度も何度も読むといいと思うね。
そうですね、例えばよく分からずに般若心経とか、あるいはいろんな漢字のお経とか読むよりは、何万倍もそっちの方が効果があると思います。それだけの、われわれの心にエッセンスとして大事なことを根付かせてくれる経典だね。
まあもちろん、いつも言ってる『入菩提行論』とか『バガヴァッド・ギーター』とか、あのへんのやつもね、もちろんそういう感じで読んだらいいと思うんだけど、それと同じようなかたちで、詞章のように、あるいはお経のようにこれも読むといいと思いますね。
はい。今日は「自己のエゴの明け渡しを、嘘偽りのないものにすることだ。」というところからですね。
【本文】
自分のエゴの明け渡しを、嘘偽りのないものにすることだ。そのときに初めて、それ以外の一切が叶うことになるのだから。
はい。まあここで言っていることは、何度もずっと同じことをいろんな角度から言っているわけですけどね。とにかく「明け渡せ」と。エゴを完全に明け渡しなさいと。そしてそれを「嘘偽りのないものにしなさい」と。
嘘偽りのないというのは、もちろん表面的な、つまり自分の頭が気づいてる嘘偽りはもちろんなくさなきゃいけないよね。それだけじゃなくて、頭は気づいてないけども、潜在意識あるいはエゴの欺瞞によって、実際は嘘偽りがたくさん含まれてるって場合がほとんどなわけですね。だからそれをちゃんと念正智して、自分の心をいつもチェックして、自分のね、心に、神に対する欺瞞がないかと。それをチェックしなきゃいけないっていうことですね。
「そのときに初めて、それ以外の一切が叶うことになる」と。これは面白い表現ですね。つまり、嘘偽りなく――つまりまあ変な話、商取引みたいな感じだったら、当然商品に偽りがあったらダメなわけですけども。この場合も、エゴを明け渡すというひとつの聖なる取引みたいなものなわけですけども、その聖なる取引において偽りがあってはこの取引は成り立たない。それは一パーセントでもあったら成り立たないと。で、もしそれが成り立った場合、この取引が成り立った場合、何が起きるかっていうと、「それ以外の一切が叶う」と。これは面白いね。つまりそれ以外と言っているのは、つまりエゴ以外ってことです。エゴはもうあきらめましたと。それ以外叶いますと。
これ、どういうことなんだろう? エゴはあきらめました。それ以外叶うってどういうことなんだろう? どういうことだと思います? Tさん、どういうことだと思います?
(T)……
どういうことかねえ? Aさん、どういうことだと思います?
(A)……ぱっと浮かんだのは、なんかお菓子とかすごい食べたいなとか思って……それ以外に、みんな幸せになって欲しいなともすごく思う。みんなが幸せになってほしいな、でも食べ物も食べたい。おいしい食べ物を食べたい。
なに?(笑)
(一同笑)
(A)エゴ……(笑)
ああ、なるほどね(笑)。自分は食べられないけど、ほかのことは叶うと。
(A)わたしのエゴは、おいしい食べ物を食べたいなってエゴがすごい強いんですけど。
あ、なるほどね。
(A)それ以外にも、みんな幸せになってほしいな、とも思う。でもわたしもおいしい食べ物が食べたいっていうのがちょっと離せない。
それは叶わないんだね。
(A)それは外せない、みたいな……
……ん(笑)?
(A)……食事だけは……
別にAさんのこと聞いてないよ(笑)。
(一同笑)
Aさんの壊せないエゴの話を聞いてるんじゃないよ(笑)。
(一同笑)
でもまあ、今Aさんの言ったことをちょっとよくまとめると、Aさんの説としては(笑)、エゴの、例えばわたしがおいしいものを食べたいっていうのは叶わないけども、エゴに基づかない願いが全部叶う、って、そういう意味にまとめられるかもしれない。それはそれでいいのかもしれないけど、でもここで言っているのは多分そういう意味じゃないんだね。もっと深い意味があると考えてください。
深い意味っていうのは、エゴを明け渡したときにそれ以外の一切が叶う――あの、でもさ、今のAさんの話にちょっと戻してみると、まあちょっと極論するとね、極論すると、われわれは全部エゴなんです。われわれの発想って全部エゴなんだね。もちろんわれわれはいいカルマによって、慈悲とかもだんだん湧き起こってきてるわけだけども、それはあくまでもある段階を超えるまでは、非常に二次的なものなんだね。われわれの心の中心はやっぱりエゴであって、いろんなきれいごとを言ってたとしても、エゴがかなりの部分を占めているわけですね。で、それがみんな叶わないんです。で、それ以外のことだけが叶うってなってしまったら、今のようなAさんの話の説だとしたらね、本当にじゃあ例えばAさんはみんなの幸せを願ってたのかってなると、まずこれもジュニャーナヨーガ的に自分の心を観察していくと、どんどん深い意識に入ると分かるわけだけど、「わたしはみんなのためとか言いながら結局自分のことしか考えてなかった!」っていうのにだんだん気づくわけですね。これが本当の正体だとしたらですよ、今のAさんの説でいうならば、何も叶わないってことになっちゃうよね。つまりほとんどエゴだったと。エゴ以外のものは叶いますよとか言ってたとしたら、エゴ以外の思いってほとんどなかったってことになる。じゃあ結局何も叶わないんじゃないかってなっちゃうよね。
だからここで言ってるのはそういうことではなくて――もう一回言うとね、われわれの意識はほとんどエゴです。ということは、それ以外の一切が叶うっていうことはなんなのかというと――でもこのエゴっていうのは結局のところは偽りであって、まやかしであって、あるいは皆さんならよく分かるように、それが叶ったとしたら、逆にわれわれを不幸に追い込むものなんだね、エゴっていうのはね。だからそれは叶わないで当然なんです。つまりそれ以外の一切が叶うっていってるのは、本当の本当の魂の幸福。われわれがそれを頭で気づいてるかどうかは別にして、本当の心の奥からの願いというよりは、本当の幸福ね。これは全部叶うと。これが全部叶うっていうのはつまり、これは一個、二個、三個って意味ではなくて、まあつまり言葉のあやですけども、まさに百ゼロの世界。まあイチゼロっていうかね。つまり、エゴが叶ってしまったら、われわれは不幸しかありません。じゃなくてわれわれの魂の本性が、これはつまり非エゴなんですけども、エゴが滅したときに現われるものがもしわれわれに現われたとしたら、これが言葉にしてしまうと「神との合一」とか「神にすべてを捧げる」とか、あるいは「真我の悟り」とかいろいろあるけども、その境地に達したならば、もうパーフェクトな幸せ、完全なる自由がそこにはあると。だからどっちかだけなんだね。
われわれは完全にエゴの側に今ついてるっていうか。わざわざ自分を苦しめようとしてるエゴの達成を一生懸命頑張ってる。だからそれを捧げろって言ってるんだね。
だからこれは別の言い方をすると、もちろん神の側からすれば、なんていうかな、これ以上の慈悲はないっていう。例えばAさんがエゴを叶えることが幸せだと錯覚してて、どんどん苦悩の方に落ち込んでいるとしたらね、神としては、「それを捧げろ」と言うわけですね。そうなると、Aさんには錯覚があるから。つまり、こんな大事なもの捧げられないっていう潜在意識がある。頭では教えとか学んでて捧げなきゃと思ってるんだけど、「こんな大事なもの」っていうのがあるわけですね。でも神から言うと、慈悲の目で見たら「それ捧げろ」と。
これはだから、さっき取引的って言ったけども、取引っていうのはさ、普通はこっち側の大事なものを与えることによって、出すことによってあっちの大事なものをもらうっていうわけですよね。でもこの構造は実は違うんです。こっちの汚いもの、こっちのけがれたものを差し出してるんだね。でもこれは、自分ではこれをけがれてると思ってない。すごい宝物だと思ってて。だから自分ではある意味ヒロイックな感じ、犠牲的な感じがするわけだね。「これはおれは普通は捧げられないけど、神のためなら捧げます!」とか言ってるんだけど、神から見たらそんな汚いもの(笑)、なにカッコつけてんの、みたいな(笑)。
全然それは、あなたがそんなに「離せない! 捧げられない!」みたいな――まあだから、みんな頭おかしくなっちゃってるから――ちょっとわたしも例えがまた貧困なんであれだけど、例えばAさんがうんこをいっぱい抱えてて(笑)、「わたしは捧げられないけど、神のためならば涙をのんで捧げさせていただきます!」とか言ってて(笑)、で、それは神は分かってるから、Aさんが馬鹿になってるって分かってるから、よしよしってやるんだけど、もし第三者が見てたら、「なんだあいつ?」と(笑)。ね。うんこをね、まるでそれを捧げることが、なんていうかな、自分の身を引きちぎられるような、そして「捧げられたらわたしはなんという帰依のある聖なる人なんだ!」みたいな感じでやってるわけだけど(笑)、それは完全に意識の錯綜があるだけなんですね。
だからここで、これを読むときっていうのは別に錯綜のままでも構わないんですけどね。読むときとかっていうのはもちろん、この自分が本当に大事なもの――つまり完全にもうはまっちゃってるわけだから。汚物のように汚いものに完全に、頭では教えを受けてても、それがもう自分の一部のように宝物のように完全に錯覚しちゃってるから。だからそれを引き離すときに、「神のためなら」――これはこれで構わないんですけどね。でもその正体というかこの構図の本当のことを言うならば、全く最初から大事なものじゃないでしょ、エゴなんて。大事なものじゃないというか価値がないです、全く。というよりもマイナスしかないっていうかな。われわれを苦悩に結びつけるものでしかないと。
だから、「それを捧げるときにそれ以外の一切が叶う」っていうのは、つまりまあ別の言い方をすれば、われわれをマイナスに導くものがシャットアウトされることによって、そうではない、われわれを本当の意味で幸福に導くものが成り立つというかな。初めてそれが姿を現わすっていうことだね。だからこれはなんていうか、表面的にはとらえない方がいいね。
「自分のエゴの明け渡しを、嘘偽りのないものにすることだ。そのときに初めて、それ以外の一切が叶う」と。つまりエゴは叶えないけど、もともとエゴは――もう一回言うけども――叶ったときっていうのは逆に悲惨な末路しか待っていない。じゃなくてわれわれが本当に心から、心の奥底から本当は望んでいる、あるいは分かっている、われわれがその錯覚から覚めたときに、「ああ、もともとこれしかなかったじゃないか」と、「もともとこれだけだった」っていう世界にわれわれが入れるっていうことですね。これが完全に姿を現わすって考えたらいいね。
-
前の記事
Aum Sri Ram -
次の記事
解説「母なる神」 第五回(2)