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勉強会講話より「解説『至高のバクティ』」第二回 「バクティ」②(3)

 まあそのようないろんな意味で「至高者にすべての活動をささげる」ということと、もう一つが「至高者を忘れることは大いなる悲しみである。それはちょうどヴラジャのゴーピー達のように」と。
 ヴラジャのゴーピー達っていうのは、皆さん分かりますよね。もう一回言うと、ゴーピー――つまり牛飼いの――クリシュナのね、クリシュナが赤ちゃんのときからずうっと村で一緒に過ごした牛飼いの女性達。彼女達は、実際には偉大な聖者や大いなる神々の生まれ変わりなんだけども、そのゴーピー達はクリシュナにとても優しくされ、愛され、そしてクリシュナから大いなる祝福を受けて、歓喜のままに村の日々を過ごしたわけですね。で、もうクリシュナなしではいられないと。
 これは『クリシュナ物語』で何度も出てきましたが、もうインドの一つの普通の観念でいうと、女性の地位って低いから――女性というのは自分の意志があまりなくね、家庭において夫に仕え、子供に仕え、あるいは舅・姑に仕え、奉仕の人生を送んなきゃいけないわけですけども、そのような社会的観念も全部無視して、夫も捨て、家事も捨て、家族も捨て、そして子供さえも捨てて――描写を見ると、非常に面白いんだね。赤ちゃんにご飯あげてたんだけど、クリシュナの笛の音が聞こえたんで、赤ちゃんをほっぽり出して出て行った(笑)。夫をほっぽり出すのはまだ分かるけど(笑)、赤ちゃんまでほっぽり出して(笑)。「もう自分にとっては何もいらない。クリシュナだけなんだ」っていうその強い想いで、もう後先考えずに、この後どうなるかなんて考えずに、すべてを捨てて「クリシュナが呼んでいる」って感じでみんなクリシュナの元に向かったりするんだね。
 そのような素晴らしいバクティの喜び――つまり一般の恋愛であるとか、あるいは一般の愛情であるとか、そういうのをはるかに超えた真の愛の喜びね。これをクリシュナとの間で育ませていただいたと。そのような美しい日々が続いたんだけど、クリシュナがいきなり旅立ってしまう。しかもそのときに、クリシュナは約束をするわけですね。約束も結果的には嘘なんだけど(笑)。つまり「必ず戻って来る」と。結局、戻って来ないんですね。うん。戻って来ないんだけど、「必ず戻って来るから、ちょっと呼ばれただけだから、町に行ってくるよ」と言って、そのまま行ってしまうんですね。
 その後、ゴーピー達はずーっと待ち続ける。つまりもう、結局、一生クリシュナは帰って来ないんですけど、ずうっと待ち続けるんだね。
 でもこれが、まあ変な話、クリシュナの彼女達への最大の祝福だったんだね。つまり「もう会いたくて会いたくてたまらない」と。「見るものすべてまさにクリシュナに見えて、それ以外で心が安らがない」と。「クリシュナのことしか考えられない」という状況を――まあ言ってみればグーッと愛を与えて、「じゃあね、また来るよ」みたいな感じで行っちゃうことによって(笑)、もうそういう状況を作ったわけですね。
 これはもちろん何度も言うように、このゴーピー達っていうのは、もうはるかな修行を何度も繰り返して、その境地に達した人達だから、だから言ってみれば、バクティの一つの見本みたいな感じでこのクリシュナのリーラーの中に登場しているわけですね。
 だからわれわれは、このようなゴーピーのような恵まれたストレートな環境ってないわけですけども、でもこれを一つのわれわれの見本にしなきゃいけない。つまり、われわれもその至高者、主が目の前にいらっしゃらないというのは耐えられないと。「あれ? わたし、今いつも誰といるんだ?」と。「エゴと一緒にいる」と。ね(笑)。「エゴがわたしの心を占めている」と。「わたしの心には、主がいらっしゃらなきゃいけないのに、エゴしかいないじゃないか」と。「こんなの耐えられない」と。
 まあ一つの――ラーマクリシュナとか、ヴィヴェーカーナンダとか、あとシヴァーナンダも言ってる一つの格言で、「欲望がいるところにはラーマはいない」――ここで言う欲望ってあの「カーマ」っていう言葉を使ってるね。カーマとラーマって言葉は似てるから、かけてるんだろうけど――「欲望(カーマ)がいるところにはラーマはいない、ラーマがいるところにはカーマはいない」って言葉があって。つまり、わたしは最愛なる主クリシュナ、あるいはラーマ、あるいはシヴァでもいいけども、そのような愛する主と一時も離れられないはずなのに、わたしの心はエゴでいっぱいであると。あるいは別のいろんなイメージや、いろんなカルマからくる、そのような神と反する心持ちでいっぱいであると。で、それは今、現状としてそれがまだ乗り越えてない場合しょうがないけども、でもそれが本当に苦しくてたまらないと。わたしがいつも神と一緒にいれないこと――つまり言ってみれば、一瞬でも神から外れることはもう苦しくてたまらないわけだから。悲しくてたまらないわけだから。それが一瞬どころか、一日のうちのほとんどの時間を、自分の心はエゴに占領されていると。まさに悪魔に……神ではなくて悪魔に心を奪われてしまっていると。こんな状況は本当に悲しくて仕方がない。
 で、これを最初は、なんていうかな、イメージ的な、思い込みみたいな感じでもスタートはいいのかもしれないけど、だんだんそれを本気で思うようにしなきゃいけない。つまり本当に心の底から、それが悲しくてたまらない。わたしがいつも――まさにラーマクリシュナがそうだったように、想像ではなくて、本当に神にリアルにお会いしたいと。で、それが今、できていないということ自体が全くあり得ない、考えられないと。悲しくて苦しくて仕方がないと。
 で、それでもう一回言うと、さっき言ったゴーピー達のように、単純に「ああ、神がいないのは嫌だなあ」じゃなくて、もう何も手がつかないような、何ももう本当に手につかないぐらいの、ある意味、苦しみですね。苦しみ、悲しみで心がいっぱいになっていると。これがこのナーラダが言うところの、もう一つのバクティの特長であるということですね。これはだから一つのエッセンスとして、皆さんも心に留めておいたらいいと思います。
 もう一回まとめますよ、一つ目は「すべての活動を至高者にささげる」と。これは重層的にいろんな意味があるけども、とにかくこのワードを一つ頭に入れておいて、すべての活動を主に捧げる。二十四時間、心、言葉、行ないのすべてが、わたしにとっては主への捧げ物なんだというかたちで、気持ちで、二十四時間生きると。これが一つ。
 で、もう一つは、「主から離れていること、至高者から一瞬でも離れていることは、わたしにとっては大いなる悲しみであり苦しみである」。これはね、さっきの「道具である」っていう話とも同じだけども、真実なんです。真実っていうのは、今わたしは「そういうふうに思いなさいよ」って言ったけども、本当のことを言うと、もともと皆さんそれ、分かってるんです。ただ誤魔化しているだけなんだね。誤魔化してるっていうか、誤魔化し続け過ぎちゃったがために、もう分かんなくなっちゃってる。つまり何を言いたいかっていうと、本当は、原初的な皆さんの心は、もう本当は主と離れられないんだね。離れられないのに離れてしまっている状況が、本当の本当のことを言うと、もう悲しくてたまんないはずなんです、皆さんは。でもそれを輪廻を繰り返し、自分を誤魔化しながら生きているうちに、だんだんよく分かんなくなってきた。よく分からなくなってきたっていうのは、自分で自分を誤魔化し始めたんです。
 もう一回言うと、さっきのゴーピーみたいな例っていうのは、あまりにもクリシュナとの別れがつらくて――例えばね、『クリシュナ物語』とか見ても、例えばクリシュナの侍者とかが――クリシュナ自体は帰らないんだけど、クリシュナの代わりに村に伝言を伝えに行ったりするんだけど――そこでゴーピー達は、クリシュナで頭がいっぱいなんだけど――まあちょっとこれは表面的な言い方ですけどね、表面的な言い方をすると、「あんなうまいこと言って今は町の女達と遊んでるクリシュナのことなんて、もう考えるのやめましょうよ」みたいな感じになって(笑)、そんな感じになって、みんなで違うこと考えようとするんだけど、どうしても駄目なんだね(笑)。どうしても――そんなこう、口で悪態ついてクリシュナのことを忘れようとするんだけど、やっぱり忘れられない。やっぱりクリシュナしか思い浮かばない。このような状態が、本来はわれわれもあったはずなんです。あったはずっていうか、今でもわれわれの深い心は、そうなはずなんです。でも表層の意識では、あまりにも誤魔化し過ぎて――しかも誤魔化しているある段階からよく分かんなくなってきます。よく分かんなくなってくるっていうのは、「なんかこの人生足りないな」と(笑)。「なんか変だな」(笑)――というのは、潜在的にみんな多分もともとはあるんだけども、でもそれだとうまくやっていけない。あるいはそれだと人生っていうものがよく分からない。
 わたしは何度も言うけど、子供のころそうでした。子供のころっていうのは、まだ修行とか始める前ね。小学生の時とか、幼稚園の時とか、ちょっと一種の絶望感があったね。絶望感っていうのは――まあ学校が嫌いだったっていうのがあるんだけど(笑)。学校が嫌いだったっていうのはあるんだけど、小学校の最初のころとかね、ふと未来を見ると、小学六年間、中学三年、高校三年、まあ大学もし行くとしたらプラス四年間、「ずっとこれ?」みたいなのがあって(笑)。その後も、社会のいろんなシステムを子供なりに観察したりね、あるいはイメージしたりすると、ちょっとこの世界――なんていうかな、ちょっとストレートに言うとね、わたしは苦しいとは思わなかったけど、つまんないと思ってたね。うん。なんかあんまり価値がないというか。そういうなんか子供ながらにイメージがあった。で、それをなんか――だからわたし、子供のころよく漫画とかで、悪の帝王とかがね、「不老不死の薬を手に入れた」とかいうのがあると、「退屈だろ!」と(笑)。「これで一億年生きる」とか言うと、「勘弁してくれ!」みたいな(笑)。

(一同笑)

 そういうところが子供ながらにあったね。うん(笑)。六十年でも長いよ、みたいな感じがあった。つまりこの世界の、本当にみんなが言っているような、これだけの世界だとしたら「それ意味ないでしょう」と。「こんな世界にそんな長くいたくない」みたいな気持ちがあった。でも前から言っているけど、でも生まれてきたからには、何かありそうな気もする。だってこんな意味のない人生だったら、生まれてくる意味がないでしょ? でも今、わたしはこうして生まれて来たと。「何かあるんじゃない?」みたいなのはあったんだね。で、それは多分皆さんにも潜在的にはそういう思いっていうかな……あるはずなんだね。でもちょっとそうじゃなくて、仮にそういう思いを小さなころ思ったことがあったとしても、やっぱりうまくやっていくために、周りに合わせ始める。で、そうすると、もともとそういう疑問とかあったとしても、合わせているうちにだんだんそっちがメインになってくるから(笑)、普通に、システムに心まで取り込まれていくわけですね。で、よく分かんなくなってしまう。よく分かんなくなって、誤魔化しがメインになってしまうっていうかな。これがまあ皆さんというよりは、全生命が本当はそうなんだね。だから頑張ってそういう思いを持つんじゃなくて、われわれが心からそういった誤魔化しや、あるいは――まあそうだね、誤魔化しだね、やっぱり苦しいから誤魔化そうとする。いろんなけがれで自分を覆って、それで何とかつじつま合わせようとするわけだけど、全部それをさらけ出して、で、誤魔化しをやめてグーッと心の奥をのぞくと、「やっぱりわたしは神を求めている」と。まさに子供のように、子供がお母さんを求めるように、ラーマクリシュナが言うように、われわれが心の底から「お母さーん!」と呼んだら、母なる神はすぐ飛んでくると。その衝動みたいのをわれわれは持ってるんだけど、何度も言うように、誤魔化しに慣れちゃって、分かんなくなっちゃってるんだね。
 で、その、もう一回言うよ、心の奥に眠ってる「母なる神よ!」と、「お母さん!」というような強い衝動を、蘇らせなきゃいけない。それが蘇ると――いいですか、「そうだ」と。「わたしにはもうあなたしかいなかった!」って思いが蘇ったのに、現状は違うと。現状は、わたしの心はエゴでいっぱいであると。あるいはさまざまなカルマでがんじ絡めになっていると。神を見ることもできないと。神がただ想念でしかないと。本当にリアルに現われてくださっていないと。これは耐えられないと。こんな苦しみがあるのかと。
 で、この苦しみ、この悲しみっていうのは、当然必要な悲しみであり、必要な苦しみです。ですからこれは、存分に持たなきゃいけない。何度も言うけど、あのラーマクリシュナが悟りを得る前にそうだったように、もうのた打ちまわるような苦しみね。そうじゃなくて皆さんは、われわれはエゴによってのた打ちまわっているんだね(笑)。これははっきり言って何も生みません。つまりエゴによる苦しみっていうのは、もちろん、修行を乗り越える段階ではエゴの苦しみはいいけども、じゃなくてだたのエゴによる苦しみっていうのは、苦しんだからって何も得ない。あるいは何も浄化されない。何でかっていうと、普通に苦しんで、それによって欲望がさらに増し、あるいはけがれが増すだけだからね。
 もちろん、もう一回言うけど、段階的に浄化しようとしているときの修行の際の苦しみは別にいいけどね。じゃなくて、もう一回言うよ……至高者への圧倒的な渇仰心、そしてそこから生じる、「今、それをわたしは悟り得ていない」という、もうどうしようもない苦しみ、悲しみ。これがバクティのもう一つの特徴であると。だからこれは自分を誤魔化さずに、常にその渇仰心みたいなのを育てなきゃいけないんだね。
 そうだな、例えば歌でいうと「ピャーレー」なんかそうだよね(笑)。最近歌ってないけど(笑)。「ピャーレー」と。「わたしは何度生まれ変わってもあなたのしもべです」と。「わたしは、一瞬たりともあなたなしではいられないんです」と。この強い気持ちね。この強い気持ちを持たなきゃいけないし、忘れないようにしなきゃいけないんだね。これがバクティの二つ目の特徴ですよと。

 はい。……じゃあ今日はこれで終わりますが(笑)。ちょっと短かったけど。

(一同笑)

 ちょっと熱く語り過ぎたね(笑)。だいぶ時間が……(笑)。まあ、でも非常に大事なところだったね、これはね。はい。最後に質問あったら質問聞いて終わりにしましょう。

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