解説「人々のためのドーハー」第二回(2)
【本文】
空(そら)の性質は本来、明晰でクリアーであるが
ずっと見つめ続けていると、視界が不明瞭になっていく。
そのようにして空(そら)の性質が変わったように見えるとき、
愚か者は、その誤りの原因が自分の中にあるということを知らない。
これは分かりやすいですね。つまり空――いわゆるこの普通のね、空。われわれがよく見てる空ね。この空っていうのは、まあ最近っていうか、冬の空っていうのは、日本でも非常に澄み渡ってきれいな空だけども――まあ、あるいは湘南台の方もね、非常に、あまり高い建物がなくて、きれいな空がありますけども、空ってほんとに、澄み渡っていて無限な感覚があって、よく心の本性の例えとして使われるわけですけども。空というのは、例えばほんとに晴れ渡った日の空っていうのは、ほんとに見てると、「ああ、気持ちいいな。ほんとに限りなく澄んで透明で」っていう感じがすると。でもじーっと見てると、ぼやけてくる。いろんな意味でね。いろんな意味っていうのはまず、集中がやっぱりちょっと続かないと、ちょっと最初の鮮明さは失われてくる。あるいはもうちょっと物理的な意味で、ちょっと目がかすんできたりとか、あるいは、そうですね、ちょっと涙が出てきたりとか、いろんな、つまり肉体的・精神的ないろんな意味で、ちょっと空が、最初のクリアーさを失い始めるわけだね。で、それは、もちろん空のせいじゃないよね。空のせいじゃないんだけども、愚か者は、「あ、空がなんか、最初良かったけどちょっとぼやけてきた」と。ね。「クリアだった空がクリアじゃなくなってきたな」って思ってしまう。それはもちろん自分のせいなわけだけども。で、これと同じことが、この世界では起きてるんだっていうことだね。つまりわれわれはこの世に対して、さまざまな不満を持つ。ね、「なんか人生苦しいねえ」と。あるいは「あの人はこういうことやって嫌なやつだね」とかね。あるいは「なんでこんなことばっかり起きるんだろう」と。「なんでわたしはこんな目に遭わなきゃいけないんだろう」と。いろんな不満を持ったり、あるいはけがれを見たりするわけだけど、それはまさに今の例えみたいなもんなんだと。つまり、空が悪いんじゃない。つまりこの世界が悪いわけではない。この世界っていうのは、このね、われわれが現実と呼んでる世界の正体っていうかな、それは、仏教ではダルマターっていうわけですが、その正体っていうのは、この空のように澄み渡った透明な純粋な世界なんだけど、それをそうじゃなからしめてるのは、世界のせいではなくてわれわれの心のせいなんだと。つまりこっち側のせいなんだっていうことですね。しかしそれは、愚か者はそれに気付かない。そして、いろんなことを世界のせいにするわけだね。
ここで言ってることはものすごく高度なことなわけだけど、つまり根本的なことを言ってるんだけども、根本じゃなくて枝葉的なことにおいては、われわれもこれは理解できるっていうかな、応用できると思うね。
これはよく言ってることだけどね、例えば、何か自分に対して、そうだな、良くないことが起きてるように思えるとき。あるいは、人の欠点が目につくとき。あるいは人が自分にひどいことをしてるように見えるとき。それはすべて自分の心のけがれなんだと。ね。何か外的に絶対的に、そういうような自分を苦しめる何かがあるわけではなくて、すべて自分の投影であると。ということは、つまりすべてが自分の心の投影であるとしたならば、この世界がもし苦しかったり、悪く見えるっていうことは、それだけ自分の心に、苦しみの因や、あるいはけがれがあるんだっていうふうにとらえるんだね。これはだから初歩的なとらえ方。まずはこれをしっかりとやるといいと思うね。
最初から、「いや、一切はダルマターであって、純粋無垢なる世界である」とかやると、なかなかそれは、頭っていうかな、知性が追いつかないだろうから、最初は今言ったような、もうちょっと初歩的な、すべては心のあらわれなわけだから、だからこの世界が純粋に見えるように――逆に言うとね。この世界のものすべてが清らかに見えるように、自分の心の浄化に励もうと。
まあ、これは、いつも言ってるわたしの好きな言葉で、ヨーガーナンダの師匠のね、ユクテーシュワルの言葉で、「世界がまだけがれて見えることを嘆け」と。つまりそれは、この世界がけがれてることを嘆けって言ってるわけじゃなくて、自分の目がね、あるいは心がけがれているから、この世界にさまざまなけがれを見なきゃいけない。だからそうじゃなくて、極端に言えばですよ、われわれの心がほんとに純粋化されたならば、われわれは悪人に出会いません。悪人に出会わないっていうのは、ほかの人はその人を悪人だと思ったとしても、われわれが悪人と認識できないっていうかな。この世の中の人はすべていい人に見える。あるいはこの世の中に起きる出来事はすべて感謝すべき神の愛に見える。ね。それはまあ、理想なわけだけど、まだわれわれはそこまでいっていない。いっていないから、それを一つの理想として、そうなるように努力しなきゃいけないんだね。つまり何かあっても不満を持つのではなくて「ああ、神の愛だ」と考える。あるいは誰かに欠点やけがれを見つけたと思ったら、それは自分のけがれなんだと思わなきゃいけない。自分がけがれてるからそういうふうに見てしまうだけなんだと。ね。こういう考え方が、真に利益ある考えなんだね。
ここで、「いや、でもこうですよね」とか、「でもあの人、こういうふうにけがれてますよね」とかいう、ちょっと現世的な考えっていうか、発想が、すぐに入り込もうとしてくる。これが修行者の、なんていうかな、真理というものと、それから今までその人が修行する前に培ってしまった、輪廻的な発想の戦いなんだね。だからそれはちゃんと、この間も言ったように徹底的に教学をして、で、正しいというかな、聖者が推奨するものの見方――例えば『入菩提行論』、あるいは『バガヴァッド・ギーター』、あるいは『心の訓練』とかね。あるいはまあ今回出た『スートラサムッチャヤ』とか『シクシャーサムッチャヤ』もそうですが、ああいう、菩薩としての、あるいは神のしもべとしての考え方っていうのをしっかり身に付けて――まあ身に付けるっていうよりも最初は知識として徹底的にその情報を自分の心に叩き込み、で、それによって自分のその今まで培った悪しき見方――ここでいう悪しきっていうのは邪悪なっていう意味じゃなくて、一般的に言うと普通の見方なんだけど(笑)。でもその見方こそが、われわれをこの輪廻に縛り付けてるんだと。だからそれを、その真理の見方によって駆逐する訓練をね、しなきゃいけない。
そういう意味では、皆さんの日々の日常におけるいろんな出来事っていうのは、そのための素晴らしい訓練の場だと考えてください。つまりそういういろんなことが起きなかったら、訓練できないから。頭の中で本を読んでるだけでは訓練できない。だから頭の中で本を読むっていうのは、準備なんだね、訓練の。準備をまずしておいて、で、その上で日常生活でいろんなことが起きる。いろんな人が現われていろんなことをやってきたりとか、ね、あるいは思いもしなかったいろんなことが起きる。それは楽しいことだったり苦しいことだったりいろいろするわけだけども、大きく揺らされる中で、常にその教えどおりの生き方を取っていくっていうかな、あるいはものの見方を取っていくと。これがわれわれの、日常における修行になりますね。
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