解説「人々のためのドーハー」第一回(7)
【本文】
彼らは、どのような方法で放棄をするのだろうか。
所有物を放棄して、瞑想にとどまるのだろうか?
何の儀式によって?
何のマントラによって、それらを行なうのだろうか?
どんな苦行を行なうのだろうか?
どんな巡礼を行なうのだろうか?
沐浴によって放棄を達成するのだろうか?
そのような形式的な、偽りの妄説へのとらわれを捨てて、
すべての幻影を放棄せよ!
そこには何もないと知れ。
「これを理解せよ」「これを瞑想せよ」と、
古い伝統や論書で議論されてきた。
目的も意味もわからず、
人々は盲目的に、それらに従ってきた。
そこには宝物があるかのように見える。
世界は偽りの奴隷になっていると、サラハは言う。
愚か者は、彼自身の真の本性を理解しない。
はい。この辺はね、より強烈な言い方になってきてるわけですが、つまりこれは何を言いたいのかっていうと、現代的に言うとですよ、どういうことを言ってるのかっていうと、いいですか、例えば――そうだな、ある人は例えば「『ヨーガスートラ』こそヨーガの根本ですよね」って言って、それに権威を見ると。ある人は例えば「いやあ、アシュターンガヨーガですよ」と。ある人はまあ、「チベット仏教ですよ」と。あるいは「テーラワーダですよ」と。で、そこで教えられた修行法、あるいは生き方、あるいは経典を大事にすると。で、そこにサラハがやって来て、「おまえら、あほか」と。「そのすべては意味ないぞ」と。
で、多くの人は――あのね、これは皆さんに言ってるわけじゃなくて、このサラハの詩の説明ですけども――多くの人は、ここにも書かれてるように、「そこには宝物があるかのように見える」と。ね。つまり、まるで、例えばヨーガやってる人の場合、『ヨーガスートラ』っていう一つの本が、ものすごい悟りを与えてくれる神の書のような気がして、それを例えば持ち歩くと。例えばね。もちろんちゃんと読む人もいるでしょう。読んで、一行一行、「ああ、そうだ。これがヨーガの本質だ」とか感動するかもしれない。あるいは例えばチベット仏教が好きな人はチベット仏教の本を買ってきて、そこに書かれてる儀式をやったりするかもしれない。あるいはそのチベットの宗派に弟子入りして、いろんな儀式を受けて、非常に満足してるかもしれない。でもそこにサラハがやって来て、「意味ないよ」と。「そこには一切悟りはないですよ」と。
そのような形式的な、偽りの妄説へのとらわれを捨てて、
すべての幻影を放棄せよ!
そこには何もないと知れ。
と。ね。だからこれは何度も言うけど、強烈なカウンターパンチです。つまり一切の権威を破壊してるんだね。あるいは一切の権威をどぶに捨ててるんです。
もう一回言うけども、これはね、この時代にとっては大変強烈な話なんです。じゃあちょっと、もう一回リアルに言いますよ。もし現代にサラハがバーンってやって来たとしたら、まあ、今言ったように、全否定をするだろうね。現代ではマスメディアがあるから、マイクを使ってね、テレビとかで、「さあ、今ヨーガが流行ってますが、皆さんやってるヨーガ、意味ないから、全部」と。ね(笑)。「はい、仏教やチベット仏教も流行ってますね」と。「いろいろ皆さん、悟った気持ちでなんかいろいろやってるみたいですが、なんの意味もありません」と。「その奥に何か神秘的な、自分を悟らせてくれる何かがあるような雰囲気に浸ってるかもしれませんが、何もないですよ」と。あるいは、「精神世界でなんかヒーリングとかなんかいろいろやってますけども、非常にあいまいな気分で自分が変わっていくような気がしてるかもしれませんが、何も変わってませんよ」と。ね(笑)。徹底的に、そのあいまいなところをひっくり返してるんだね。
じゃあ、なんなんだ?ってなるよね。全部否定して、皆さんがそのほんわかと、ふわーっと、何かがあるような気持ちで追究してるものには全部何もないよって言ってるわけだけど、じゃあ何が真実なんだっていうことになるよね。で、結局これは、先を読んでいくと分かるけども、サラハが結局帰結してるのは、師匠なんです。つまりこれが密教の道なんだけど、つまりこれはいつも言ってるように、師と弟子の関係が非常に密教では重視される。だからこのような一般的な詩において、例えば一般論としてね、こうすれば悟れるよっていうのはなかなか言えないんだね。だからこのような話っていうのは――例えば聖者がいるとしたら、聖者から見ると、すごく歯がゆいことをみんながやってるわけですね。つまり、「そこだ! それなんだけどな」と。でもみんなちょっと違うことやってると。「そうじゃない! これなんだよ」と。「これなんだよ!」と。「君たちがやってるのは、なんか正しいと思い込んじゃってるけども、それじゃないんだ」と。「もうちょっと違うんだ」と。でもこれは、何度も言うけど、言葉では説明できない、非常に難しい問題なんだね。だから例えばサラハも一般論としては言えないことなんだけど。
で、ここで、修行における師弟関係っていうのが出てくるんだね。だから、従うべきは自分と縁のある――もちろん正しい師匠じゃなきゃ駄目だけど、正しい師匠で、自分と縁のある師匠の、その人個人個人に対する導き方があるわけだね。それはもう、さっきまで言ってるような、経典とか伝統とかっていうのは関係がない。まさに一対一の勝負みたいなもんだから。例えばある師匠は、経典に書いてあることと逆のことをやらせるかもしれない。あるいは、みんなにやらせてる修行と全然別の修行をその人にだけやらせるかもしれない。つまり、何度も言うけども、修行や教えは実際は便宜上のものにすぎないから。だからその辺が、サラハが帰結してるところなんだけどね。
だからこれも、ちょっと、なんていうかな、柔軟な目で読まなきゃいけないね。だから、そのためにサラハはいろんなことを否定してるんだけど、だからといってここで出てくる否定されてることが、実際にやっちゃいけないっていうわけじゃないからね。サラハが言いたいことっていうか、エッセンスとして何を伝えたいのかを読み取らなきゃいけないね。
はい、この辺のことは、だからもしわれわれが現実的に取り入れるとしたら、まず一つはね、やはり権威主義にならない方がいい。例えばですよ、これは批判じゃないけども、ちょっと例として言うとね、さっき言ったヨーガスートラ。ヨーガスートラっていうのは、いろんな人が――まあヨーガをさ、ほんとにかじってるだけの人っていうのは、ヨーガスートラも知らないだろけど。普通にフィットネスでやってる人は。そうじゃなくて、ちょっとヨーガを本格的に学び始めた人にとっては、ヨーガスートラっていうのはほんとに聖書のような、神の偉大な聖典みたいな感じであがめられてる。わたしもよくそういう話を聞いた。「いや、ヨーガスートラがすべてです」とかね。「ヨーガスートラのあの一行目」――一行目っていうのは、「ヨーガとは心の働きを止めることである」っていうのが一行目に書いてあるんだけど、「あの言葉にすべてが込められてる!」とか言う人もいて。わたし、それ聞きながら、「そんな大したことじゃない……」と(笑)。まあ、カイラスでもヨーガスートラの解説書出してるよね。『ラージャヨーガ』っていう本出してますし、ヨーガスートラはもちろん素晴らしい本ではあるが、そんなに神格化するものではない。で、わたしの個人的見解から言うと、もちろんヨーガスートラも『バガヴァッド・ギーター』も、あるいはその他の経典もね、もちろんすべて真理の本なんだけど、ヨーガスートラはそんなに、なんていうかな、現実的に役に立つかどうかっていうと、まあ、そんなにでもない感じがするね。わたしは、いつも言ってるように、『入菩提行論』とか『バガヴァッド・ギーター』とか、あの辺を皆さんには推すわけだけど。それはまあ、わたしの経験も含めて、非常に、なんていうかな、メリットが大きいっていうか。
もちろん、この二つっていうのは、権威ももちろんあるよ。『バガヴァッド・ギーター』はヒンドゥー教最高の聖典だし、『入菩提行論』は、まあ、日本ではそんなに有名じゃないけど――ダライ・ラマ法王がチベットを脱出するときに、こっそり脱出したから、ほとんど自分のものを持っていけなかったんだけど、経典の中で唯一『入菩提行論』を持っていったっていうエピソードがある。それだけチベットとかインドでは、すごく重要視されてた経典だね。でもまあそういう権威とは別に――もちろん権威でいったら、『入菩提行論』以上に一般的に権威ある経典はたくさんある。しかしわたしはそういうのをいっぱい読んできて、役に立たないものが多い。例えばヨーガスクール・カイラスで皆さんに紹介したとしても、まあ、時間の無駄だなっていうものも多い感じがする。でも『入菩提行論』は、例えばあれを日々学んで心に植え付けて、自分の心を変える手段として、非常に使いやすい。『バガヴァッド・ギーター』もそうだね。だからそういうのはまあ推すわけだけど。
ヨーガスートラにもそういう部分はあるんだけども、でもそれよりはやっぱり『バガヴァッド・ギーター』とか『入菩提行論』の方がいいかなっていう感じがする。でも、もう一回言うけども、ある人たちは、『ヨーガスートラ』こそが最高であると言うと。じゃあその人たちは『ヨーガスートラ』を理解してるのかっていうと、おそらく多くの場合は理解していない。つまり権威なんだね。だから皆さんも権威とか、あるいは伝統であるとか――もちろん伝統は、いい部分もあるよ。素晴らしいものだからこそ受け継がれてきたものっていうものもあるわけだけど、そうじゃなくて単純に伝統であるというだけで、飲み込まれないようにした方がいい。あるいは、そうだな、マスメディア的なね、つまり一般に広く宣伝されているからとか、そういう部分にはまらないようにしたらいいね。ここの教訓としてはね。
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