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解説「人々のためのドーハー」第一回(4)

【本文】

 また、ジャイナ教の僧たちは、
 ある者は長い爪と汚い服
 またある者は裸になり、くしゃくしゃの髪で
 彼らは自分たちの「解放の教え」に束縛されている。

 素っ裸になれば解脱するというなら
 野良犬たちは解脱しているだろう。
 毛を剃ってつるつるになれば完璧だというなら
 乙女のお尻は完璧だ。

 彼らジャイナ教の僧たちにも解脱はないと、サラハは言う。
 彼らは幸福の真理を奪われ、
 ただ自分の体を苦しめる。

 はい。このジャイナ教っていうのは、さっきも言ったように、ヒンドゥー教や仏教ととても似てるんだけど、極端な実践で知られてるんだね。方向性は似てるんです。つまり戒を守り、煩悩を捨てて解脱しましょうっていう方向性は似てるんだけど、例えば有名なのは、不殺生ね。不殺生っていうのはもちろんヒンドゥー教も仏教もいうわけですけども、ジャイナ教は極端で、例えば、流派にもよるのかもしれないけど、いつも口のところに布をかけてると。それはなぜかというと、自然に知らないうちに虫とかが入ってきて殺さないようにと。あとまあ、よく、ろ過器をいつも持ち歩いてるっていうんだね。つまり水を飲むときに、しっかりろ過してね、ちょっとでも微生物とか虫がいないようにして飲むんだと。
 昔、こういう話があって。ジャイナ教の僧がいて、で、そこに西洋のある学者みたいな人がやって来て、話をしてて、で、ジャイナ教ではわずかな虫も殺さないように水をろ過するんだっていう話をしたときに、その西洋の学者がね、まあ、お節介なんだけど、顕微鏡でね、「でもいるよ?」って見せたっていうんだね(笑)。「でもまだいるよ?」と――そしたらその僧がショックを受けて気絶したっていう話がある(笑)。
 まあ、だからそれだけちょっと観念的で極端なんだね。で、そのジャイナ教の中にもいろんな派があって、その中で、真っ裸の人たちがいます。これはつまり、いわゆる不所有ね。まあ仏教でも不所有っていうわけだけど、仏教の場合は、杖と、それからぼろを縫い合わせた衣と、托鉢の鉢ね――この三つだけは持っていいよっていうのが仏教の出家修行者ですね。で、ジャイナ教の場合はそうじゃなくて、これは派によるんだけど、ジャイナ教の一派では、一切持ってはいけないと。つまり服さえも、それは所有のけがれであると。だから真っ裸で生きるんだと。そういう派もあるんだね。あるいはここに書いてあるように、ある人たちは、毛さえも駄目だと。ね(笑)。で、毛を剃る。それをちょっと皮肉って言ってるわけですね。「素っ裸で解脱するなら、野良犬たちは解脱しているだろう」と(笑)。「毛を剃ってつるつるになれば完璧なら、乙女のお尻は完璧だ」と(笑)。非常に面白い表現ですけどね。うん。
 で、「彼らは自分たちの解放の教えに束縛されている」と。つまりジャイナ教っていうのは今言ったように、このようにすることで解放されるっていう、ある意味観念があるんだね。つまり解放っていう観念がある。つまり、毛を剃れば不所有だとか、持ってるもの全部なくせば、あるいは裸になれば不所有なんだと。あるいはさっき言った、水を飲むときもろ過しないと殺生になってしまうとか、そのような非常にガチガチの、このようにして解放されねばならぬっていう観念に束縛されてるんだと。だから解放はないんだよっていう、ちょっと逆説的な言い方ですね。

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