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解説「人々のためのドーハー」第一回(3)

New work preview by Images Of Enlightenment. First wave of new releases slated for mid-May.

【本文】

 豪華な衣装を身につけ、一人または複数の助手を従える。
 彼らは、自分たちの伝統こそ優れていると誇り、
 虚栄心の奴隷となって、人生を無駄に浪費する。
 彼らは、何が法で、何が非法であるか、理解していない。
 
 彼らは体に灰を塗り
 縮れた長い髪を頭の上に巻いて載せて
 家の中に座って、灯明を灯し、鐘を鳴らす。

 彼らは姿勢をただし、目の位置を固定し、
 人々を欺く言葉をささやく。
 そして未亡人や修道女などに
 教えとアビシェーカを与えて、報酬を受け取る。

 はい。この辺は淡々と、ヒンドゥー教の祭司、ブラーフミンたちを批判してるわけですね。で、もちろんここは言いたいことを読み取らなきゃいけないんだけど、つまり、さっきから言ってるように、形骸化してしまった、つまり本質を見失った修行者たち、しかし自分たちは真理を実践してるんだと勘違いして傲慢になってる人たちに対する警笛でもあるし、あるいはそういうものに引っかかるなっていう言葉でもある。
 あのさ、これはもちろんサラハの時代だから、当時のインドの大宗教であるヒンドゥー教、そして仏教――まあ当時はね、ヒンドゥー教と仏教が二大大宗教。で、ジャイナ教もちょっとあるっていう感じ。で、あとはイスラム教だね。ただここではイスラム教はちょっと眼中に置かれてないというか、系統がちょっと違うので。ジャイナ教っていうのは日本ではあまり知られてないけど、すごくヒンドゥー教とか仏教に似てるといわれてるんですね。同じような修行をするわけですね。だからこの三つがやり玉に挙がってるわけですが、特に一番伝統的なヒンドゥー教ね。当然ヒンドゥー教の古代の儀式にはいろんな意味あるものもあっただろうし、素晴らしいものもあっただろうけども、もう一回言うけど、非常に形骸化し、その本当の意味を忘れ――まあ、それはさ、日本の仏教とかにも言えるよね、もちろんね。お坊さん、僧侶ということで多くの人に尊敬され、で、自分もまあ仏の道を歩いてるような感覚をしてるわけだけど、実際それが本当の意味で仏陀への道になってるのかっていうと非常に疑問があると。
 あるいはもし現代にサラハが現われたら、最も糾弾すべきは、いわゆるスピリチュアルの人たちね(笑)。多くの、なんかわけの分からない精神の道がもうあふれてると。チベット仏教のチョギャム・トゥルンパっていう人は、それをね、「スピリチュアル・スーパーマーケット」と言っています(笑)。現代はスピリチュアル・スーパーマーケットであると。つまりもう価値のない商品が、「はいはいはい、いらっしゃい、いらっしゃい、こっちは悟れるよ、悟れるよ、悟れるよ」と(笑)。「はい、こっちですよ、こっちですよ」っていう感じでね、ほんとにもう薄っぺらいものが、切り売りされていると。例えば三日間の講習を受けることで、人々に悟りのエネルギーを広められますとか、そんなことあり得ない(笑)。でもそういうのがまあ、ほんとにもう――まあネットとか見てもそうだよね。「遠隔ヒーリングします」と。「これによってあなたのチャクラが開き」云々。そんな簡単に開きません。ね(笑)。そんな簡単にチャクラが浄化されたり、あるいは悟りのエネルギーが覚醒したりってあり得ない。でもそれが、ほんとに何がほんとで何が間違いなのか分かんないぐらいに、もうスピリチュアルっていう世界は肥大してると。今はだから、なんていうかな、非常にあいまいなスピリチュアルの世界ね。これはもしサラハが現われたら徹底的に否定する場所だと思うね。
 まあ、そういう意味でもね、現代っていうのはそういう時期に来てるのかもしれない。やはりまた、ちょっと流れを変えなきゃいけないっていうか。まさにね、チョギャム・トゥルンパが言うように、スピリチュアル・スーパーマーケットになってると思うんだね。あるいはスピリチュアル・マテリアリズムとかも言ってるけども。非常に、つまりかたちはなんか真理への道みたいな感じなんだけど、実際は非常に唯物的だったり、あるいは実際はすごくエゴイズム的だったりするのがすごく蔓延してるわけだね。で、それはいったんまたぶち壊されなきゃいけないのかもしれない。チベット仏教ですらそうだね。近代で一番やっぱり素晴らしい発展を遂げたのがチベット仏教だと思うんだけど、チベット仏教ですら、まあ、もちろんチベットを追い出されちゃったっていうのもあるんだけど、非常に形骸化した商品として、欧米や日本でもてはやされてるわけだね。
 だから、今はちょっと時代の変わり目にあるのかもしれない。で、多くの人が先生になりたがり、まあ、さっき言ったように、数日の講習で「なんとかマスター」とかいって(笑)。ネットを見てもほんとにびっくりするんだよね、いつもね。「何々の講習を受けてなんとかマスターになりました。幸せになりたい方はこちら」みたいな、なんか(笑)、そういうのがもういっぱいなわけだね。うん。そういう時代だから――まあ、多くの人が精神的なところに目を向け始めてるっていう意味ではいいと思うんだけども、非常に浅はかなものがね、流行っている。
 だから、ここに書かれてるのはサラハの時代の話なので、現代のわれわれは、そうじゃなくてね、そういう本質的ではない精神世界、あるいは仏教、あるいはヨーガにね、鋭い目を向けなきゃいけない。ヨーガはもちろん、皆さん分かってると思うけども、いわゆるフィットネス的なヨーガ、あるいはアーサナ中心のヨーガ、それがまあ、ヨーガとして広まってしまっている。これも一つの罠だね。まあ、これもでも、今言ったように、それをきっかけに多くの人が本格的な道に入るなら、それはそれで素晴らしい。しかしそうじゃなくて、「いかにこのポーズを習得するか」っていうのに命を懸け(笑)、で、もうほんとに長い時間と労力をかけて「このアーサナを習得した!」とか言ってるのを見ると、ああ、その努力を、自分のね、心の浄化であるとか、エネルギーの覚醒とかに向けたらね、もっと素晴らしいものが得られるのになと思うわけだね。だからそういう、現代ではまた違ったものがあるので、そういったものにわれわれは目を向けなきゃいけないし、自分自身もね、そういった、かたちだけの修行であるとか、あるいは形骸化したものであるとか、あるいは、そうですね、権威的なものね。そういったものにはまって、本質を見失わないようにしなきゃいけない。
 はい、だからこれは、この辺の細かいところっていうのは別に考えなくていい。つまりまあ、全体的にそのヒンドゥー教のお坊さんとかが、おれたちはブラーフミンであると、偉大な聖なる道を歩んでいる偉大な聖職者なんだっていう思いでね、やってることの、まあ欺瞞性をちょっと突いてるわけですね。

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