解説「ラーマクリシュナの福音」第二回(3)

M「師よ、人が形のある神を信じるといたします。その神は決して土のかたまりではございません。」
師「だがなぜ土などと言うのだ? それは霊の像のだよ。」
Mはこの「霊の像」の意味がよくわからなかった。「しかし師よ」と彼は言った、「土の像を拝んでいる人々には、それは神ではないということを、そしてそれを拝むときには土の像ではなしに神を心に描かなければいけないということを説明してやらねばなりません。」
師「それがおまえたちカルカッタの連中の唯一の道楽なのだ――説教をして、他人を教化しようとする! 誰一人、反省して自分が教えを受けようと考える者はいない。他人を教えるというおまえたちはいったい何者なのだ。
宇宙の主でいらっしゃる『彼』が、あらゆる者にお教えになるのだ。この宇宙をお作りになった『彼』だけが、太陽と月を作り、人と獣とすべての生き物をお作りになった『彼』だけが、我々をお教えになるのだ。(中略)
主は実に様々のことをしておいでになる。――『彼』が、ご自分を拝む方法を人々にお教えにならないなどいうことがあろうか。もし彼らが教えを必要とするなら、そのときには『彼』が教師とおなりになるだろう。『彼』は我々の内なる導き手でいらっしゃる。
仮に土の像を拝むことに何かの間違いがあるとしても、それによって神だけが呼び求められている事を『彼』がお知りにならないかね。『彼』は拝まれているという、そのことだけでお喜びになるだろう。なぜそのことでおまえが頭を痛めなければならないのか。おまえは自分の明智と信仰を求めて努力した方がよい。」
このたびは、自分のエゴが完全に砕かれたことをMは感じた。今はこう思った、「そうだ、彼のおっしゃることは真理だ。私に他者を教える何の資格があろう。私は神を知っているか。私は真に神を愛しているか。『自分の寝床にゆとりもないのに、一緒に寝ようと友を招く』だ。私は神について何も知らない。それなのに人を教えようとしている。なんということだ! 私は何という馬鹿者だ! これは他人に教えることのできる数学や歴史や文学ではない。いや、これは神の深い神秘なのだ。本当に彼のいわれるとおりだ。」
これはMの、師との最初の議論であり、そして幸いにも最後の議論であった。
師「おまえは土の像を拝むということを言っていた。たとえ神像は土でできていても、そのような種類の礼拝が必要なのである。神ご自身が礼拝の様々の形を与えてくださったのである。宇宙の主であられる『彼』が、明智の様々の段階にある様々の人の貯めに、これらすべての形を用意してくださったのである。
母親は様々の子供の胃袋に会うように様々の料理を作るだろう。五人の子供がいるとする。ここに一尾の魚があれば、彼女はそれで様々の料理を作る。ピラフとか、漬け物とかフライとかいうように、彼らの好みと消化力に合わせて。――私の言うことがわかるか。」
はい。こうして最後の打撃がね、与えられると。
ここに書いてあることは分かりますか? ここでまずMがちょっと師に議論をふっかけるわけだね。その議論っていうのが、つまり、「形のある神も形のない神も、どっちも真実だよ」とラーマクリシュナが言ったので、Mはそれにびっくりしちゃって。「まあ、それはよく分からないけどオッケーとしましょう」と。でも、その形ある神の中で――ここで言われてるの、はいわゆる偶像崇拝っていうやつです。ね。世界中で、特にちょっと知的な宗教っていうのは、まあ偶像崇拝を禁止するわけだね。例えば仏教にしろ、キリスト教にしろ、ヒンドゥー教にしろ、知的な人たちっていうのは、例えばなんか銅像とかを作ってそれを「ああ、神だ!」ってあがめるのは、あれは偶像崇拝であると、そんなのは駄目だって言うわけだね。でも実際には、土着の信仰者たちっていうのは、そういうことをよく行なってるわけだね。
まあインドでも、皆さんインドに行ったら分かると思うけども、そこら中に神の像がある。立派なのもあるけど、ほんとに、なんていうかな、岩にちょっとくぼみがあるぐらいの絵とかあるんだね(笑)。「え、これなんなんだろう?」と思ったら、岩があって、なんかこう花とかいっぱいかけられてて、よーく見たら、まあ、ちょっと目に見えないことはないかなと(笑)。あと、ちょっとこう長くなってて、「あ、ガネーシャの鼻なのかな?」っていうのがたくさんある。で、それを人々は「ああ、神よ」っていって日々拝んでるわけだね。で、それをちょっとインテリ的な宗教者たちは、すごく馬鹿にするっていうか否定するわけだね。彼らは無智だと。あんな岩の中に神がいるわけがないと。神っていうのはそんな存在ではないと。いろいろ知的なことを言うわけだね。
まあ、日本でももちろん、そこら中にお地蔵様とかブッダの像がいっぱいあるわけだけど。非常に素朴な、ね、おばあさんとか、素朴な信仰心のある人っていうのは、まあ、ほんとに何も難しいことは分からずに、ただ「ああ、お地蔵様」と。「ああ、仏様」って感じでお祈りしてると。で、それをちょっと知的な人は、「いや、彼らは何も分かっていない」とね、言うわけだけども。で、それをまあふっかけたわけだね、Mはね。
そしたらまたラーマクリシュナは、「なぜ土などと言うのだ?」と。「それは霊の像だよ」っていうことを言うわけだね。それでMは――まずはそれをちょっと理解できなかったので、そういう人には、ね、土の像を拝んでいる人々には、それは神ではないということを教えてあげなきゃいけないと。そして、その土の像ではなくて、ほんとの神を心に描かなければいけないんだということを、その素朴なね、像を拝んでる人に教えてあげなきゃいけないんじゃないですかっていうことをラーマクリシュナに言うわけだね。そしたらラーマクリシュナが、まあちょっと怒りだしたわけだね、またね。
「それがおまえたちカルカッタの連中の唯一の道楽なのだ――説教をして、他人を教化しようとする!」と。
カルカッタっていうのは、当時のインドの首都ですね。まあ、かなり大きな都だね。だからインドの中でも、まあ東京とか大阪みたいな大きな都市の一つですね。で、ラーマクリシュナが住んでたところっていうのはドッキネッショルといって、このカルカッタのちょっと外れ、ちょっと北の方にあるんですね。非常に田舎町です。わたしも何回もこのドッキネッショルに行ってるんだけど、カルカッタ周辺は確かにちょっと都会的な感じ。まあバックパッカーもいっぱいいて、高いビルもいっぱい建ってて、なんか、百ルピーショップとかあったりする(笑)。百円ショップみたいな(笑)――百ルピーだったか十ルピーだか忘れたけど、なんかそういうのもあって、すごいなんかこう、日本とか欧米に近づいてるような雰囲気がある。で、そこからちょっと三十分とか一時間とか離れたドッキネッショルとかね、あとその近くにね、ヨーガーナンダの師匠のユクテスワの住んでたところとかね。あと、そのユクテスワがババジに会った川とか、いろいろあるんだけど(笑)、その辺の名所がその辺にあるんですけど、その辺に行くと、ほんと、ど田舎になります。ベンガル人の人々の街になるんですけども、ベンガル語を話すからヒンディー語も通じない。英語も通じない。で、ちょっと独特の田舎町になって。非常に素朴でいいんですけどね。食べ物はとてもおいしいです(笑)。なんか日本に近いかもしれない。魚料理とか米料理とかが中心の町なので、日本に合うのかもしれない。人柄もとてもいい人たちで、まあ、田舎町なんだね。だからラーマクリシュナが住んでたこのドッキネッショルからすると、まあちょっと離れたカルカッタっていうのは非常に都会なわけだね。
で、このMっていう人はこのカルカッタに住んでた。まあ、というよりもほとんどのラーマクリシュナの弟子はカルカッタから来ています。カルカッタにいたおぼっちゃんたちとか、あとまあお金持ちの人たちが多かったんだね。その人たちが、ちょっと離れた田舎町のラーマクリシュナの聖なるヴァイブレーションに引かれて、みんなこのドッキネッショルに集まってきたわけだけど。――まあ、そういう意味が含まれてるわけですね。「おまえたちのような都会から来たやつはみんな同じことを言う」と。「『人に教える』と。それがおまえたちの道楽だ」と。「誰一人、反省して自分が教えを受けようと考える者はいない。他人に教えようというおまえはいったい何者なのだ」と。「宇宙の主でいらっしゃる『彼』が、あらゆる者にお教えになるのだ」っていうことを、バッと言うわけですね。
はい、そして、ここでね、まあ分かると思うけど、このMという人は、ある意味智慧があり、そして謙虚だったんだね。つまりこのラーマクリシュナの叱責によって、ハッと目覚めるわけです。ここで例えばプライドが高かったり智慧がなかったり傲慢だったりしたら、逆に怒るかもしれない。「何様なんだ!」とか言われて、「何言うんだ!」と(笑)。まあラーマクリシュナってほとんど本とか読んでない人だから、「俺はおまえなんかより多くの哲学書を読んできたんだ」と。ね。「偶像は絶対駄目なんだ」って言い返したかもしれないけども、まあ、もちろん縁もあっただろうし、縁と智慧と謙虚さがあったんでしょう。Mはそこでラーマクリシュナの言葉によってハッと目覚めさせられて、「そうだ」と。「この方が言ってることは本当である」と。「わたしに他者を教える何の資格があろうか」と。「わたしは神を知っているのか?」と。「わたしは真に神を愛しているのか?」と。「『自分の寝床にゆとりもないのに、一緒に寝ようと友を招く』ような者である」と。「わたしは神について何も知らないじゃないか」と。「それなのに人を教えようとか、人に正しいことを教えてやろうなんていうのは、なんていう馬鹿者であろうか」と。「これは神の深い神秘なのだ」と。「つまり単なる知識の世界ではないんだ」という、本質的な、なんていうかな、修行者としての意識にここで目覚めるわけだね。
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