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解説「ラーマクリシュナの福音」第一回(3)

【本文】

M「彼女は申し分ございません。しかし、無明ではないかと存じます。」

シュリー・ラーマクリシュナ(不満げに)「そしておまえは明智の人であるというのだね!」

 Mはまだ、明智と無明との違いをよく知らなかった。このときまで彼は、明智は書物や学校から得られるものと考えていたのである。後にはこの誤った考えを捨てた。神を知ることが明智、知らないことが無明であるということを知った。シュリー・ラーマクリシュナが、「そしておまえは明智の人であるというのだね!」とお叫びになったとき、Mのエゴは再び強い衝撃を受けた。

 はい。この会話なんかまさに、師匠であるラーマクリシュナが新たな弟子であるMを導いている会話だと分かるよね。だって普通考えたら変でしょ。つまりラーマクリシュナはここで、まず問い掛けとしては二択を言っているわけですね。二択っていうのは、「おまえの妻は明智、つまり智的な、霊的な性質を持っているのか、それとも無明か?」と。まあよくね、インドではこういうことをします。つまり明智というのはヴィディヤーっていうんですが、無明のことをアヴィディヤーっていうんですが、つまりこの世のものを明智、つまり神の叡智の系統のものと、それからアヴィディヤー、つまり無智、無明、われわれを苦しみに導く系統のものと、二つによく分けたりするんだね。明智と無明。で、「おまえの妻はどっちのタイプかね?」と。ね、つまり――まだ悟ってはいないとしても、智慧が眠っているタイプなのか、それとも、まあ周りをね、どんどん堕落させるような無智な女なのか?――と。二択を言っているわけです。
 二択を言われたってことは、当然Mとしてはどっちか答えるしかないわけだね。どっちかを答えるしかなくて、その一つの答えを言ったわけです。つまり無智であると。そしたらラーマクリシュナは非常に不満な顔をして、まあ逆切れしているわけだね(笑)。「ではおまえは明智だというんだな」と。ね(笑)。ちょっとなんていうかな、あの、これだけ見るとちょっと納得いかない会話でしょ(笑)?ね。「おまえの奥さんは無智ですか? 智慧がありますか?」って聞かれて……まあ例えば具体的なね、例で言うなら、例えばわたしがSさんに――普通にね、普通の会話ですよ。優しくね、「Sさんの旦那さんは智慧があるタイプですか? それとも無智ですか?」って聞いたら、Sさんが、「いやあ、うちの旦那は無智で」って言ったら、わたしがいきなり怒りだして、「ああ、じゃあおまえは智慧があるって言うんだな!」と(笑)。

(一同笑)

 ちょっと不合理的な会話なんだけど。つまり導きの会話なんです、これはね。普通のやり取りっていうよりは、そのようにして、つまりMの――まあこれはだから密教的なね、ミラレーパやナーローパとかがやるような、ああいう、弟子の悪しきところを引っぱり出して叩くやり方に似てるね。つまりこの会話を引き出しているラーマクリシュナが言いたかったことは、おまえは自分が智慧があると思っていると。しかしそのおまえが思っている智慧っていうのは、それは違うんだと。で――まあそれがここに書いてあることだけども、Mはさっきも言ったように西洋風の教育を受けていて、学校の勉強できることが、あるいは多くの本を読んでいることが、それが智慧ある者の印だと思っていた。ね。あるいは学者のように多くの学位を取っているとか、それが智慧ある人の印だと思っていた。しかしそれは全く関係ないんだよと。ね。神を知ること――つまりここでいう知るっていうのは知識ではなくて、本当に神の叡智に没入すること、神がなんであるかを悟り得ること、それが智慧であって、そうでないことが無明なんだと。ね。それをMは全く知らなかったわけですね。だからそれを、なんていうか、ラーマクリシュナから懇々と言葉で説明されるというよりは、このような会話を通してバシっと衝撃を与えられて、それに気付かされたっていうことですね。
 はい、で、まあこの会話はもう少し続きますが、ちょっと今日はもう時間もなくなっちゃったので、この辺で終わりにしましょう。

(一同)ありがとうございました。

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