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解説「ミラレーパの十万歌」第一回(4)

【本文】

 グルの顔を見、彼の言葉を聞くとき、
 わたし、乞食僧は、心臓の中のプラーナによってかきまぜられます。
 わがグルの教えを思い出すと、尊敬と崇拝の念が心に生じます。
 彼の慈悲に満ちた祝福がわたしに注がれるとき、
 すべての破滅的な思いは止滅します。

 師よ、「わがグルへの思い」という熱い歌は、
 あなたによって聞かれたに違いありません。
 しかし、わたしはまだ闇の中にいます。
 どうかわたしを哀れみ、加護を与えてください!

 不屈の忍耐が、グルへの最高の布施です。
 グルを喜ばせる最高の方法は、激しい瞑想修行に耐えることです!
 一人この洞窟にとどまることが、ダーキニーたちへの最高の奉仕です!
 聖なるダルマにわたし自身を捧げることが、仏教に対する最高の奉仕です。
 それは、わたしの人生を瞑想に捧げて、わたしの仲間である絶望的な衆生を救うことです!
 そして、死と病を愛することは、悪業の清算のための祝福です。
 禁じられた食物を拒絶することは、悟りと解脱に到達することを助けます。
 わが父であるグルの慈愛にこたえるために、わたしは瞑想をし続けます。

 わがグルよ、どうかわたしに加護を与えてください。
 この乞食僧が、この隠れ家にとどまり続ける手助けをしてください。

 はい。このようにミラレーパは心が変わり、マルパにこのように言うわけですね。
 はい。まあこれもじゃあ一つ一ついくと、「心臓内のプラーナ」ってありますが、これはこの間『シヴァ・ヨーガ・スートラ』でもやりましたが、すべてのわれわれの生命エネルギーっていうのは心臓から出ている。そしてわれわれが、なんていうかな、感情的になるときとかいろんな心の動きがあるときも、この心臓のプラーナ、つまり生命エネルギーの動きによってわれわれはいろんな喜びとか悲しみを感じてるっていう考え方があるんですね。これがこの表現だね。「心臓内のプラーナによってかき混ぜられます」っていうのは、つまりそれだけ心がものすごく揺り動かされましたっていう表現ですね。
 「彼の慈悲に満ちた祝福が私に注がれるとき、すべての破滅的な思いは止滅します。」――破滅的な思いっていうのは、これはいろんなパターンがあるけども、つまりもう、なんていうかな、自分を例えば真理から外れさせるような、あるいはすべてを無にしてしまうような、そういう思いだね。
 皆さんもちょっと心が低くなってるときやエネルギーが下がってるときに、そういうときがあるかもしれない。もうすべてどうでもいいとかね(笑)。あるいはもうちょっとこう自暴自棄になって、逆にもう悪いこといっぱいやってしまうとかね。そのような破滅的な思いに――まあもしくはもっと別パターンとしては、死んでしまいたいとかね。あるいはもういなくなってしまいたいと。もちろん本当の意味でいなくなることは、これは解脱しかないんだけど(笑)。死んでも生まれ変わっちゃうから。でもそうじゃなくて、解脱したいとかそういう気力もないと。もう何もする気もないっていうときもあるだろうし、逆に魔的に悪いこといっぱいやりたいとか、もうどうでもいいんだっていうようなときもあるでしょうと。しかしグルの、師匠の慈悲の祝福が注がれるとき、そのような破滅的な思いはすべて消え去るんだと。
 これはもちろん師匠の力ともいえるけども、弟子側の、なんていうかな、弟子がそういうものに心を向けるかどうかっていうことでもあるよね。なぜかというと、いつも言うように、その師匠とか神とかブッダっていうのは別に、あるときは祝福を注いで、あるときは注がないってわけじゃない。いつも注いでるんです。じゃあ注がれたり注がれなかったりは何が決めてんのかというと、弟子が――まあいつも言うようにね、傘を差してるからなんだね(笑)。もしくは家の中にいるからなんです。つまり弟子は自分のエゴという家の中に閉じこもっている。師や神の祝福は太陽のようなものです。いつも注がれてます。でも弟子はエゴっていう家の中に閉じこもっているから、「ああ、暗いです。わたしの人生暗いです」と(笑)。「祝福をお与えください」とか言ってるんだけど(笑)、祝福はずーっと与えられてる。それを受け取ってないのは弟子の方なんだね。で、そこで少しずつ少しずつ弟子が、師匠や神への帰依や信を高めていくっていうことは、ちょうど自分の家の屋根に穴を開けだすっていうことです。ちょっとだけ穴を開けました。つまりエゴを明け渡すのは怖い。怖いけども、ちょっとずつちょっとずつエゴというその家の屋根に穴を開けると。そうするとその開けた分だけは祝福が来ます。でも開けてない部分は暗い。で、最後にはどうなるかっていうと、最後には弟子は家を出るわけです。最後には、「よし、分かりました。わたしはもうすべてを放棄します」――それが言葉だけではなくほんとにそうなったとき、弟子はそのエゴという家を出るわけだね。そうするともう全身でその祝福を浴びることができる。
 で、もちろんこれは、じゃあそれで終わりなのかっていうとそうじゃなくて、またそのエゴの家に戻ってしまう場合もある。だから自分が――まあこれは師だけじゃなくて、神とかブッダについてもそうだけど、「なんか最近、祝福を受けてないんじゃないか」とか、「いや、わたしは今祝福を受けてる」とか感じるのは、何度も言うけど、その授ける方の問題じゃなくて(笑)、受け手側の問題だっていうことだね。自分がどれだけ開いてるかっていうことです。
 師や神やブッダにどれだけ心を開いてますか? 開いた分だけ――つまり開くっていうことは、逆に自分のエゴを捨ててるわけだけど、開いた分だけ祝福が来ますよということだね。

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