見極めるべき因果のポイント
現象の因果の法則の関係を見極めるのは実際は簡単ではない。
たとえばここに不注意な男がいたとする。
ある日彼の家が火事になった。彼はそれが自分の不注意さに起因するものだと考え、不注意さを反省するかもしれない。
しかし実はそれは放火による火事であった。そしてその放火した犯人は彼の知人で、彼の傲慢な態度にいつも頭に来ていて、そのために放火をしたとする。
この場合、彼が火事という悪果をこうむった原因、反省すべき点は、不注意さではなく、傲慢さだったということになる。
これはあくまでも表面的な因果の例だが、実際の因果の法則はさらにわかりにくく、現象の裏側を貫いている。
ここで言おうとしているのは、現象としての因果の法則の真実ではなく、修行者が、あるいは真理の探究者が見極めなければならないポイントの話である。
教えを学び、日々の出来事の中に自分の心のけがれや悪しき身口意の行為をその因として認め、反省するという作業をしていたとしても、そのポイントがずれていたら、空回りの努力をすることになる。もちろん空回りでも進みはするが、それではとてもスピードが遅い。
とはいえ、バシッと正答を見つけるのは非常に難しい。
最も簡単な方法は、偉大な師がいる人はその師に心を合わせることである。
そして師から与えられた言葉や指示を、ある意味盲目的に、自分の観念を入れずに受け入れ、実践することだ。
もちろんその土台として日々教えを学ぶ。
日々懺悔をする。懺悔に関する詞章を唱え続けるだけでもいい。
まだそのような師がいない人は、聖典や聖者の言葉をよりどころとする。
もっとも、「帰依」「バクティ」「菩薩道」などの教えを学び、それらに忠実に生きようと日々努力しているならば、そもそも大きな間違いを起こすことはなく、スムーズに自己を浄化して進んでいくことができる。
しかし悪魔の罠、特に傲慢さという罠は常に巧妙に忍び寄り、修行者の心の中の大事なものを侵害する。よって常に謙虚さ、帰依の心を保ち、懺悔の心を持ち続け、神や師に自己を明け渡し続ける必要があるのである。