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要約・ラーマクリシュナの生涯(11)「サーダナーと神の酩酊」②

 ゴダドルの礼拝や瞑想は、希有なる変化を遂げ、母なる神に完全に没入するようになった。そこには、母なる神だけをよりどころとする幼児のような誠実さと、信仰と、従順と、愛らしさだけがあった。
 大人の真面目さ、時と場所と相手に応じてなすべきこととなすべきことを識別する力、聖俗両面において思慮をもって行動する分別――このようなものは全く、彼のこの態度の中には見られなかった。
 ゴダドルは彼の意志とエゴを、すべての意志の源である母なる神の意思の中に溶け込ませてしまっており、完全に彼女の手中の道具として一切のことをおこなっているように見えた。

 このようなゴダドルの信仰や行動・態度は、世俗の人の者とは大きく違っていたために、様々な人が様々なことを言い始めた。しかしそんなことは彼にとっては全く問題ではなかった。彼は今や母なる神の意思によって一切のことをおこなっていたからである。世間の虚しい騒ぎは、彼の心には全く届かなかった。この世にいながら、この世の人ではなかったのである。外的世界は彼にとって夢の世界と化した。純粋なる意識と至福からなる宇宙の母のお姿だけが、彼には唯一の実在と見えた。

 以前にはゴダドルは、礼拝や瞑想中に時々、光輝く母なる神の片手とか片足とか、この上もなく美しく愛深い笑顔などを見た。しかし今は、礼拝や瞑想以外のときにも、ほほえみ、語りかけ、彼を導き、彼に付き添って「これをせよ、これをするな」と言う母なる神の光輝く全容を見ていた。

 また以前にはゴダドルは、彼が食物などを母なる神に供養するといつも、母なる神の目から光線が放射されて、すべての供物に触れ、それらの精髄を取ると再び光が彼女の目の中に引っ込むのを見た。しかし今は、供物が捧げられる前にも、母なる神が座って、聖堂内を神々しい光の輝きで満たしつつ、自ら供物をお取りになるのをみた。

 またラーマクリシュナは後に、この頃の次のような経験も語っている。

「私は自分の部屋にいて、母が少女のように楽しそうに、足輪の鈴の音を響かせながら階段を上っていらっしゃるのを聞いた。私は確かめに出かけて行き、彼女が髪を振り乱したまま本当に聖堂の二階のベランダに立ち、カルカッタの方を眺めたり、ガンガーを眺めたりしていらっしゃるのを見た。」

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