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要約「シクシャー・サムッチャヤ」(4)「衆生や如来を欺かない」

◎衆生や如来を欺かない

 菩提心は、ブッダの化身を目にすることによって、生ぜられるのである。

 そして菩提心を起こし、菩薩の道に入った者は、菩薩の戒を守らなければならない。

 アーカーシャガルバ・スートラ(虚空蔵経)にはこう説かれている。

「名声と利得と供養を受けることにとらわれることは、もろもろの罪のもととなる。」

 サッダルマ・スムリティウパスターナ・スートラ(正法念処経)には、次のように説かれている。

「たとえ少しのものでも、施そうと心で思ったのに実際に施さなかったならば、餓鬼界に落ちる。
 施すと口で言ったのに実際に施さなかったならば、地獄界に落ちる。
 いわんや、無上の覚醒をすべての衆生に与えると誓いながら、それを実行しなかったならば、どうなるであろうか。」

 ダルマサンギーティ・スートラ(法集経)には、次のように説かれている。

「菩薩は真実を修習すべし。真実を集めることは、法を集めることだからである。
 ではその真実とは何か。菩薩が、衆生のために無上の最正覚を得ようと欲し、たとえ身命を捨ててもこの心を捨てず、もろもろの衆生を捨てないこと、これを菩薩の真実という。
 もし菩薩が、衆生のために無上の最正覚を得ようと欲しながら、後にその心を捨て、もろもろの衆生を捨てたならば、これは大妄語である。そのようなことは実に厭逆すべし。」

 アーリヤ・サーガラマティ・パリプリッチャー・スートラ(聖海意菩薩所問経)には、次のように説かれている。

「まだ救済されていないもろもろの衆生を救済しようと誓いながら、教えを学ばず、戒律を守らず、もろもろの菩提分法を修行しない者は、多くの衆生を騙したことになる。過去のブッダが説いたように、これは聖なるものの厭逆するところである。
 無上の最正覚は、極めて得難い。よって、まさに知るべし、菩薩は一切の衆生を騙すべからず。
 ある人が法を求めて来るとき、菩薩は彼らのために法を説き、また必要であればその身を捨てて菩薩の行を修め、一切の衆生を騙すべからず。常にこの如く知るべし。」

 故に、自己のステージを高める修行にはげみ、また十善の一つ一つもしっかりと守るべし。

 クシティガルバ・スートラ(地蔵経)には、こう説かれている。

「もし十善のうちの一つの善すらも守らず、命終わるときに『われは真実に大乗を行ぜし者、われは無上の最正覚を求めし者である』と言ったとしても。その人はただの大嘘つきである。彼は世間を惑わし、断滅論を説いて衆生を迷妄にいざない、その身が壊れて死んだ後は、もろもろの悪趣に堕す。」

 また、菩薩は死の間際までもろもろの修行を修習し、またそれを衆生に説くべし。
 バイシャジャグル・ヴァイドゥーリヤプラバ・スートラ(薬師瑠璃光経)には、こう説かれている。

「もし偉大なる心を持つ衆生が、菩薩の難行苦行および素晴らしく優れた叡智を聞き、また菩薩が解脱するのを見たならば、彼は大勇猛心を発し、衆生の重荷を背負って衆生を救済し、もろもろの苦しみの根本である煩悩を捨て去り、他の衆生に教えを説くだろう。彼自身、菩提心を持ち、ブッダや師に説法を懇願し、あるいは自らが他の衆生に説法する。
 故に知るべし。このように衆生に教えを説き、身をもって示すことで衆生を導く者を、『道を示す者』と呼ぶのである。」

 マンジュシュリー・ブッダクシャトラ・グナヴューハーシャーミ・サットヴァシャイカシャ・カーラナータには、こう説かれている。

「最初に輪廻を遠離し、衆生を利益するために行を行ず。我、世尊のところにおいて菩提心を発し、世尊を現前にお呼びして、もろもろの衆生を苦しみから救済する。
 嫌悪、恨みの心、物惜しみの心、貪りの心、嫉妬心は、我が覚醒を得るとき、あまねく捨て去られる。
 そして常に梵行を修めて、もろもろの悪業や煩悩を脱し、ブッダにお会いして清浄なる教えを学び、愛し、喜び、尊重する。
 ただ一人でも救われずにいるうちは、われは無限の間、輪廻に住する。」

 
 また、アクショーブヤプラニダーナーヌジュニャーナ(アクショーブヤ本願受決経)には、こう説かれている。

「アクショーブヤ如来がかつてまだ菩薩だったころ、このように考えた。
『私は何度生まれ変わっても、世を捨てて修行者になろう。もしそうしなければ、これはすなわち、すべてのブッダ・如来を欺くことになる。』
 もろもろの菩薩は、このアクショーブヤ如来の誓願に従うべし。
 もろもろの菩薩は、何度生まれ変わっても、世を捨てて修行者になるべきである。家族や異性に愛著せず、世を捨てて修行者になるべきなのである。」

 以上のように、菩薩は衆生と如来とを欺かないために、ほんの少しの悪業でも見たならば、ただちに捨て去るべきなのである。

 そのようにして菩薩は、もろもろの衆生をあらゆる苦悩から解脱させ、あらゆる素晴らしい楽を与えるのだ。

 もし身口意において精進することなく、心を成熟させることなく、縁ある衆生を導くこともなく、煩悩に対抗しようとしないならば、それは悪業となる。
 自己の能力を超えたことに関しては、それが達成できなかったとしても、悪業とはならない。
 しかしたとえ自己の能力を超えていると思えることに出会っても、そこで簡単に精進を捨てるなかれ。全力で、死に物狂いで、なすべきことにぶち当たるべし。

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