要約「シクシャー・サムッチャヤ」(2)「信」
◎信
「苦しみを終滅させ、至福の極地に行かんと欲する者は、信根を堅固になし、智慧を堅固にするべし。」
ラトノールカー・ダーラニー(宝光明ダーラニー)には、次のように説かれている。
「もろもろのブッダおよびブッダのダルマを信じ、従い、また菩薩の道を信じ、無上の偉大なる覚醒を信じる。
菩薩が最初に菩提心を起こした時の信は、功徳の母である。これによって一切の優れた善の法は養われ、疑いの網は断滅され、渇愛の流れは枯渇する。
信はよく忍耐と智慧と安らぎの行をあらわし、信は汚染なく心を浄化し、エゴを放棄し、恭敬の心のもととなる。
信は最上の手のようなものであり、隠された宝を発見し、幸せを得る。
信がある者は、歓喜して一切を捨てることができる。
信の喜びによって、ダルマの道に入る。
この信は、功徳と智慧を生み出し、ブッダの教えに通達する。
信の機根の清らかな光は、煩悩の根本を断つ。
信の力は堅固であり、壊れることがない、
信は瞬間瞬間、もろもろのとらわれから心を引き離す。
信はよくもろもろの魔境を超え、最上の解脱道を明らかにする。
信は壊れることのない功徳の種子であり、覚醒の苗を生長させる。
信は優れた叡智を生み出す門であり、十方のもろもろのブッダをあらわす因である。
もし常にブッダに信を持ち、帰依すれば、戒や教えに反するものから遠く離れる。
もしそのように戒や教えに反するものから遠く離れるならば、彼は深くブッダの功徳を讃嘆する。
もし常にダルマに信を持ち、帰依すれば、彼はダルマを学んで飽きることがない。
もしそのようにダルマを学んで飽きることがなければ、ダルマの深遠な意味を理解する。
もし常にサンガに信を持ち、帰依すれば、清らかな友と離れることがない。
もしそのように清らかな友と離れることがなければ、信の力は動ずることがない。
もし信の力が動ずることがなければ、もろもろの機根は清らかで明晰で優れたものとなる。
もしもろもろの機根が清らかで明晰で優れたものとなるならば、彼はもろもろの悪友から遠く離れる。
もしもろもろの悪友から遠く離れるならば、彼は真に善なる法友の仲間となる。
もし真に善なる法友の仲間になるならば、常に広大なる善を修習する。
もし常に広大なる善を修習すれば、偉大なる因の力を成就する。
もし偉大なる因の力を成就すれば、彼は信による最勝の解脱を得る。
もし信による最勝の解脱を得れば、もろもろのブッダに常に守られる。
もしもろもろのブッダに常に守られるなら、彼はよく菩提心を発こす。
もしよく菩提心を発こすならば、彼はブッダとなるための功徳を努力して修習する。
もしブッダとなるための功徳を努力して修習するならば、如来の一族として生まれる。
もし如来の一族として生まれるならば、深遠清浄なる信を得る。
もし深遠清浄なる信を得るならば、最上最勝なることを得る。
もし最上最勝なることを得るならば、深遠で素晴らしいパーラミターを常に実践する。
もし深遠で素晴らしいパーラミターを常に実践するならば、偉大なる魂となる。
もし偉大なる魂となるならば、ありのままにブッダを供養することを知る。
もしありのままにブッダを供養することを知るならば、ブッダを念ずる心は不動となる。
もしブッダを念ずる心が不動となるならば、常にブッダの奇跡を見る。
もし常にブッダの奇跡を見るならば、どこにも住処のないブッダとなる。
もしどこにも住処のないブッダとなるならば、すなわち彼は知る、この法は永遠に滅することはない、と。」
また、ダシャダルマ・スートラ(十法経)には、次のように説かれている。
「信を最勝の乗り物とし、正覚に向かって進む。
故に、信を持って、智者に親しみ近づくべし。
もし人に信の機根がなければ、もろもろの善なる法は生じない。
たとえば、焼かれた種子からは芽が生じないごとくである。」
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