要約「シクシャー・サムッチャヤ」(12)「菩提心を失う難」
◎菩提心を失う難
菩提心を失うという難については、ラトナクータ(宝積経)にこう説かれている。
「もし菩薩が、次の四つの法を成就するならば、菩提心を失うことになる。
1.師を尊重せず、師を欺く。
2.他者に、真理に対する疑いや後悔の心を生じさせる。
3.菩薩の道を歩く者を称賛せず、罵倒する。
4.他者とともに何かを行なうとき、欺きの心があり、正直・誠実さがない。
また、もし菩薩が、次の四つの法を成就するならば、さまざまな世界に生まれても、菩提心から離れることがない。
1.たとえ命を失おうとも、正しくないことを語らず、正しくないものに親しみ近づかず、こびへつらって笑ったり戯れたりしない。
2.他者とともに何かを行なうとき、欺きの心がなく、正直・誠実さをもって行なう。
3.師の名前をたてまつり、いたるところで師の名前を称賛する。
4.衆生を救済し、無上の最正覚に導く。」
獅子王所問経には、こう説かれている。
「もしここに菩薩があって、常に精進して法施を行ない、常に法施を念じ、夢の中においても菩提心を捨てない。いわんや目覚めているときにおいておや。そして村や町などに行ってもこの心を捨てず、ただ衆生を教化して悟らせることだけを考える。このような菩薩は、最も早く、もろもろのブッダの集会の中に入ることができるであろう。」
◎怠惰の難
元気・気力・努力・精進がないのもまた難である。これを解決するには、宝雲経にこう説かれている。
「菩薩は次のような心を発する。
『我が精進は弱く、下劣で怠惰なるがゆえに菩提行を修習することは難しい。しかし私は無量のカルパの間、このような怠惰な状態を続けてきた。今こそ、このような重荷を捨てて、頭に火がついた男がすべてを捨てて全力でその火を消そうとするように、そのような精進をもって菩薩行を行なおう。
過去・現在・未来の如来・最正覚者たちは皆、このように精進修行して最正覚を得たのである。正覚は簡単に得られるものではない。私も今から多くのカルパをかけてダルマを守り、すべての衆生のために精進し続け、無上の最正覚を得よう。』」
◎法を説く対象を誤る難
ラトナクータ(宝積経)には、こう説かれている。
「未成熟の衆生に対して究極の意味の真理を説くならば、これは菩薩の過ちである。
法の器でない衆生に対してもろもろのブッダの深遠なる素晴らしい法を説くならば、これは菩薩の過ちである。
広大なる信をもつ衆生に対して小乗の教えを説くならば、これは菩薩の過ちである。」
◎不信の難
信がないこともまた難である。ラーシュトラパーラ・スートラには、こう説かれている。
「ブッダのダルマを信じず、カルマの法則を信じず、それゆえに多くの過失を犯す者は、死後、人間に生まれたとしても迷妄なる者となり、のちには地獄・動物・餓鬼に落ちて苦しみを受ける。」
これを逃れるためには、ラトナクータにこう説かれている。
「もし人が、深遠なる法を理解することができなかったとしても、その法を誹謗してはならない。
『私はまだ深遠なる法を理解することができない。しかし私はもろもろのブッダの悟りを信じる』と考えるべきである。如来は、そのような衆生のために正法を説いてくださる。」
◎精進奉仕
善の精進を行なって、これまでにあげたような難を捨てるべきである。
ボーディサットヴァ・プラーティモークシャには、こう説かれている。
「常にブッダを供養し、素晴らしき法を学び、精進を行なえ。」
ラトナラーシ・スートラには、こう説かれている。
「精進に励む修行者は、もろもろの修行者の中にあって、常にこの精進の心を護持すべし。あらゆる行為において、誰にもその場所を譲ってはならない。たとえば出家して寺院などに入ると、召使が彼の身の周りの用事をさまざまにしてくれたりするが、そのように他者を使役してはならない。
もし托鉢修行者を見たならば、飲食・衣服・寝具・薬などを布施すべし。
ヨーガの師の前では、傲慢になってはいけない。ヨーガの師の近くに住み、身の回りの世話をし、素晴らしい飲食物などを供養すべし。
また、精進に励む修行者は、いかなるものにも所有意識を持たず、また粗末な衣服を着るべし。きらびやかな僧衣などを着てはいけない。如来は出家修行者には、ぼろ布を縫い合わせた衣を着るように定められた。もしこの如来の指示に反し、きらびやかな衣服を着ることに執着するようならば、むしろ雨風の中でも何も着ない方がよい。」