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「ミラレーパの十万歌」第一回(2)

【本文】

ミラレーパの十万歌

パート1 ミラレーパ、悪魔を征服し、改心させる

第一話 「赤い岩の宝石の谷」の物語

 すべてのグル方に礼拝いたします。

 あるとき、偉大なヨーギー・ミラレーパは、宝石の谷の鷲の城に滞在して、マハームドラーの瞑想修行に集中していました。
 空腹感を感じ、何か食物を調理しようとしましたが、よく洞窟の中を見ると、塩や油や小麦粉はおろか、水や燃料さえ何もないということがわかりました。
 彼は言いました。

「私はものを無視しすぎたようだ!
 外へ出て、少し薪を集めなければならないな。」

 彼は外へ出ました。しかし彼が手に小枝を集めると、突然、強い風が起こりました。その風は森の木を吹き飛ばし、彼のぼろぼろの服を引き裂くほどに強い風でした。服をつかもうとすると薪が飛ばされ、薪をつかもうとすると服が破り飛ばされました。

 ミラレーパは考えました。
「私はこんなにも長い間、ダルマを実践し、リトリートにとどまっているのに、未だ自我執着を取り除いていない! それを征服できないならば、ダルマを実践していったい何になるのだろうか。好きなように風に、薪や服を吹き飛ばさせよう!」

 このように考えて、抵抗をやめました。しかし、食料不足による身体の虚弱により、次の突風に彼はもはや絶えることができず、気絶して倒れました。

 はい。この『ミラレーパの十万歌』っていうのは、まあ、ただの物語ではありません。そして逆に、ただの教えが書かれた経典っていうわけでもない。わたしの印象だとこれは――まあ何回かやったあのロンチェンパの作品とも同じように、なんていうかな、これを読むこと自体がわれわれの瞑想になる。われわれの心を変えてくれる、瞑想の書みたいな感じがあるね。もちろんただ普通に、普通の人が普通に読んだらただの物語なんだけど(笑)、修行者がこれをしっかりとこう、いろいろ考えながら、あるいは自分に当てはめながら読んでいくと、すごくいい瞑想に使える物語っていう感じがするね。
 はい。そして、この第一話もそうだけども、例えば一つの何か言いたいことがあって、それのために全体の物語があるっていう構成ではなくて、一つのこの物語の中にさまざまな示唆が含まれてる。で、それはそれぞれの段階に応じて読み取れたり、あるいは自分の修行が進む度に読み返すと、より深い意味を受け取れたりっていう経典だね、これはね。
 はい。で、まず最初の部分。この部分はとてもいい部分ですね。これはつまりミラレーパがずーっと、つまり無頓着に瞑想をしてたと。で、さすがにまだ、まあ完全なブッダっていうわけじゃないから、ずーっと瞑想してたらお腹が空いてきたと(笑)。ね。「あ、じゃあそろそろ何か食べようか」と思ったら、何もないと。で、この何もないっていうのは、もちろん悪いことではない。つまりそれだけ、なんていうかな、無計画――いい意味でね。つまり一切のものにこだわらない。つまり普通だったらさあ、「さあ、おれは洞窟で修行するぜ」と。「さあ、じゃあここら辺に台所作っとくかな」とかね(笑)。あるいは「数日間瞑想するから、食料はじゃあこれだけ蓄えとくか」と。「じゃあ薪も何日間分かいるかな」と。「じゃあこれだけあれば足りるかな」とか、そういうことを計算して、もうわーって整えて、「よし、瞑想するか」と。
 でもね、普通はね、こういった傾向っていうのは、それだけでは終わりません。バシッとそれで終わって、「はい、じゃあ瞑想」――これならまだいいかもしれない。でも普通はさ、そういうことに心を向けだすと、瞑想にならないんだね。例えばそれで三時間ぐらい瞑想しましたと。四時間目ぐらいに、「やっぱり薪あれ、足りるかな?」とかね(笑)。「やっぱりちょっと少なかったかな?」とか(笑)。で、まあ半日くらい瞑想してたら、「あの食料だけで足りるかな?」とかね。うん。どうでもいいことで頭がいっぱいになってしまう。だから放棄がほんとは一番もちろん大事なんだね。まあバクティヨーガ的に言うと、もうすべておまかせすると。
 ある人が、まあ、こういったことに関して師匠に尋ねたことがあって、それは何かっていうと、われわれはね、修行ばっかりやってたら、特に今みたいな時代――昔のお釈迦様の時代っていうのは、修行者が托鉢に出ればみんなが食べ物とかくれたりとかね、あるいは信者が、まあお金持ちの信者とかが、道場とかを布施したりとか、そういう時代があったけども、今の時代はみんなそんなに信仰がないし、あるいはシステムももう貨幣経済のシステムになっちゃってるから、「今の時代は修行者が修行だけやって生きていくのは大変じゃないか」と。「何かそこら辺は経済的にいろいろ考えた方がいいんじゃないか」っていうふうに師匠に言ったらね、師匠が、「よく考えてみろ」と。「今までに餓え死にした修行者がいるか?」と。「必ずブッダや仏教の守護者や、あるいは聖なる神々たちが、必要なものはわれわれにいつも与えてくれるようになってるんだ」と。「だから心配するな」っていう話があって(笑)。これもまあなんていうかな、「ああ、そのとおりだ」って思うか、「いや、それは合理的じゃない」って思うかはまあ自由だけども、そういうような、なんていうかな、投げ出したような心構えが必要なんだね。
 だからここでミラレーパが瞑想に集中してて、気付いたら何もなかったっていうのは、もちろん悪いことではない。それだけミラレーパが、もう本当に悟りのことしか考えてなかったっていうことだね。
 はい。で、まあ何もなかったんで、しょうがないので、火さえもおこせないので、まずとりあえず薪を集めに行きましたと。そしたらいきなり突風が吹き、で、ものすごい嵐のように風が吹いて、「あ、薪を飛ばされないようにしよう」と思って薪を大事に抱えようとすると――まあもともとミラレーパはボロを着てるから、そのボロの服がもう破かれそうなぐらいバーッて飛ばされそうになる。「あ、服が飛ばされる」と思って服を守ろうとすると薪が飛ばされそうになると。で、しばらくこうやってミラレーパは困ってたわけだけど、そこでハッと気付くわけだね。ハッと気付いて――まあ、ここに書いてあるようなことを思うわけです。
「わたしはこんなにも長い間、ダルマを実践し、リトリートにとどまっているのに、未だ自我執着を取り除いていない! それを征服できないならば、ダルマを実践していったい何になるだろうか。好きなように風に、薪や服を吹き飛ばさせよう!」と。ね。
 これはとても大事な部分だね。つまり、一体何のために修行してんのかっていう問題なんだね。それはここに端的に書いてあるように、自我執着の克服ね。つまりエゴを克服するために自分はこんなにも長く修行してたはずなのに、今自分の行動を見ると、「ああ、薪が飛ばされたくない。」「ああ、服を飛ばされたくない」っていうエゴでいっぱいであると。それに気付いたわけだね。で、そこで、「全然これじゃ修行の甲斐がないじゃないか」って思って、「もう好きなようにもう風が吹くなら吹け」と。「薪でも服でも飛んでいけ」みたいな境地になったわけだね。
 これはだからわれわれもとても、なんていうかな、心に留めなきゃいけない。つまりこれはもちろんミラレーパが、そういうエゴが強い人だったっていうわけではなくて、人間の心、修行者の心っていうのは常にそういうふうに、なんていうかな、忘れるんだね。自分は何のために修行してんのかとか、あるいは何が必要で何が必要でないかとかをすぐ忘れて、すぐに、以前のというか、あまり正しくない考え方、あるいはあまり本質的ではないところに心が奪われてしまう。だから常にこのように自分を観察してね、自分がちょっとポイントを外してないかなということを観察しなきゃいけない。
 はい。そしてここで、そのようにミラレーパが気付いてね、自分のエゴを捨て、「さあ、風に好きなように飛ばさせてやろう」って言ったら、すごい風が吹いちゃって(笑)、で、もともと食料不足で体ガリガリになりながら修行してたから、その風に耐えることができずに吹っ飛ばされちゃって気絶しましたと(笑)。それがここのところですね。

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