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菩薩の道(5)その3「サマーディ」

 さて、念正智の修習は、次に来る本格的な瞑想の準備になります。

 というのは、本格的な瞑想、サマーディというのは、良くも悪くもないからです。
 うーん、この辺は難しいところですね。説明も難しいし、解析も難しい。しかしまあ、適当に書いてみます(笑)。

 サマタ、すなわちサマーディから来る心の寂静状態。この瞑想のポイントは、集中力です。
 それには驚異的な集中力が必要だと、私は思います。
 
 よく、良い瞑想についての話で、お釈迦様と、昔ヴィーナの演奏者だった弟子の話がありますね。
 この弟子は、うまく瞑想できずに悩んでいました。そこでお釈迦様が、こうアドヴァイスするわけです。
「君は出家前、ヴィーナの演奏者だったそうだが、どうだ? ヴィーナの弦というのは、固く締め上げれば締め上げるほど、良い音がするのかな?」
「いえ、そうではありません。」 
「では、ゆるめるのがいいのだろうか?」
「いえ、そうでもありません。
 きつすぎず、緩めすぎず、最も良い音が出る調律の状態を見つけなければなりません」
「瞑想もそれと同じだ。」
 このアドヴァイスで彼はハッとして、良い瞑想に入り、悟ったといいます。

 この話は、緊張しすぎず、だらけすぎず、良い瞑想状態を「調律」せよという話であって、決して、「あまりコンをつめずにほどほどにやりなさい」という意味ではありません。
 非常に説明しづらいのですが、集中はすごい集中しなければいけないんですよ(笑)。でも緊張はしてはいけないんです。そして超リラックスしなければいけない。しかしそれは怠惰ではないんです。
 そして確かに「調律」という感じがします。しかし相当の注意力があれば、調律の努力さえいらなくなります。あるいは瞑想に慣れてくると、集中の努力さえいらなくなります。

 また別の話で、これはチベットの女性聖者マチク・ラプドゥンマの言葉ですが、
「はじめ、固く締め上げて、その後に徐々に緩めていく。そこに高い見解が見出される」
とありますね。
 この「固く締め上げて」というのは、緊張ではなく、集中のことだと思います。
 そして、集中をぎゅっとした後、意識的にその集中を緩めるというテクニックは、技術的にはありかもしれません。
 しかし私は体験上、この言葉も、そうではなくて、集中の果てに自然に現われる拡大状態を表しているのではないかと感じます。
 たとえるならば、ここに藁の束があって、それを紐でギューッと縛る。ものすごく縛る。そうするとぷちっと紐が切れて、パーッと藁の束が解き放たれる。
 わざと緩めるんじゃないんです。集中の極限状態において、パーッと広がるんです。
 ものすごい極微に集中していたのに、いきなり極大になるんです。
 もちろん、実際にはこうなるには、集中力だけではなくて、徳とか、意識の透明さなども必要です。

 で、話があちこち行きますが、ここで言いたかったのは、本来、心の本質にアクセスすれば、その本質より浅い段階の心の汚れとか、カルマの悪さとか、そういうのは関係なくなるという考えがあります。
 しかしそれは本当だろうか? 本当でしょう。本当だけど、実際は難しいといえます。なぜなら、心が汚れていると、そもそも心の本質にアクセスしがたいという矛盾があるからです。
 
 ですから実際は、心を浄化し、かつ集中によって深く入る。この二つの要素が必要なのです。 

 そして心を浄化する手段として、八正道では、正しいものの見方、正しい思い、正しい言葉、正しい行為、正しい生き方、正しい努力といった準備を日々の生活で行い、仕上げとして正しい念正智をするわけです。つまり心の要素、あるいはカルマを徹底的に真理一色にしていく。

 サマーディというのは最初にも書いたように、広い意味があります。そして最初は、心の本質ではなくて、少し深い心の世界、まあそれは死後の世界と通じるといってもいいのですが、誤解を恐れずに言えば霊的な世界に突っ込んでいくサマーディがあります。このとき、汚れた霊的世界に突っ込めば、それは「邪サマーディ」と呼ばれます。
 面白いですね。邪サマーディという言葉が、原始仏典に出てくるんですよ。正しいものの見方、正しい思い、正しい言葉、正しい行為、正しい生き方、正しい努力、そして正しい念によってサマーディに入れば、正しいサマーディに入る。しかし邪なものの見方、邪な思い、邪な言葉、邪な行為、邪な生き方、邪な努力、邪な念の後にサマーディに入ったならば、邪サマーディに入るだろうと。
 つまりそういう邪悪な生き方でも、テクニックで無理やり、広い意味でのサマーディには入れるんですね。しかしそれは心もカルマも汚れたままだから、ろくな経験はしない。かえって無智を増やすような、あるいはカルマを悪化されるようなサマーディ体験になるかもしれない。
 だから、正しい道の仕上げとして、正しい念をしっかりと修習し、心の状態の入れ替えをするんですね。
 そうして形成された清らかで真理に基づいた心の状態のまま、その心の世界に突っ込むわけです。
 まだこの状態はもちろん、本当の心の本質ではありません。

 深いけど本質ではない状態。ここで正しく心の旅をし、最も安全に、効果的に、かつすばらしい要素を身に着けつつ心の本質に向かうために、その前の正念、あるいはその前の正しく生きるプロセスが必要なのです。
 特に救済者としての仏陀を目指す場合は、つまり菩薩の場合は、単に解脱すればいいというわけではなく、さまざまなすばらしいサマーディを経験し、衆生を救うためのすばらしい要素を身に着けなければいけません。

 そして本当は、まあ、また後でも書きますが、相当に静まった、サマタ、サマーディの状態で、心を観察する。それがより本質的な意味でのヴィパッサナなわけですね。

 だからよく、あまり体験のない人が、ヴィパッサナ、ヴィパッサナと言って、逆にサマタはあまり価値がないという言い方をする人がいますが、それはおそらく瞑想経験がないのでしょう。サマタは非常にすばらしいです。そしてサマタが確定されないと本当のヴィパッサナは出来ません。もちろん、より浅い意味でのヴィパッサナは、高度なサマタの準備になります。だからこれらはセットなんですね。サマタとヴィパッサナを、交互にやっていくような瞑想もあります。

 さて、また長くなってしまいました・・・もう、この項目は長期戦になりそうですね(笑)。また続きます。

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