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菩薩の道(5)その1「念」

5.禅定の完成--打ち勝たれざる(その1)

 菩薩の修行の第五番目は、禅定の完成です。
 ところで、パーラミターの訳語としてここでは完成という言葉をとると最初に書きましたが、正確には完成というのも正しくないような気がします。完成というともう終わってしまっているわけですが、なんていうか、行為において完成しているというか、そういう感じではないかと思いますね。マラソンでいうなら、もうゴールしてしまった状態を指すわけではなく、そのパートパートにおいて、最高の理想的な走りを実現している状態というか、全力で理想を体現している状態というか。

 さて、そしていよいよ禅定です。禅定とは簡単にいえば瞑想のことです。サンスクリット語ではディヤーナといいます。日本の禅の語源も同じですね。
 ヨーガにおいては、ディヤーナはサマーディの前段階で、サマーディよりまだ浅い段階として定義されますが、仏教では、そういう定義というよりも、ディヤーナにしろサマーディにしろ、もっと大雑把に瞑想をあらわす言葉として使われているようです。たとえば「正しいサマーディにおける第一ディヤーナは・・・」といった使われ方をするので、その辺はヨーガの定義と混同しないように気をつけなければなりません。

 しかしどちらにしろこの段階では、広い意味でのサマーディ、つまり正しく深い瞑想の境地に入らなければなりません。
 
 ところで、最近、ヴィパッサナ瞑想という言葉をよく耳にしますね。しかしあまりよくわからずにこの語を使っている人も多いようです。
 ヴィパッサナ(観)とは、狭い意味では、この禅定の後の智慧の完成と対応します。つまり自己の本質、世界の本質といった、究極的な真理を観る、悟る智慧のことです。
 しかしもっと広い意味での「観察の瞑想」という意味でのヴィパッサナならば、それは大きく分けて四段階くらいに分けられるのではないかと思います。
 その第一と第二の段階は、サティにおけるヴィパッサナです。

 サティとは、念と訳されています。
 そしてこれはお釈迦様の説いた八正道では、サマーディの前段階の正念という段階として出てきます。
 しかし実際は、お釈迦様が念について説いた原始仏典「念相応」や、大乗仏教のシャーンティデーヴァの「ボーディチャリヤーヴァターラ」などを検討すると、ここで実践すべきは正確には念ではなく念正智といえると思います。
 では念とは何なのか。念正智とは何なのか。
 
 念(サティ、スムリティ)は、「憶念」と訳されることもあることからもわかるように、もともとは「記憶」の意味があります。もっといえば、記憶して忘れないことです。
 正智とは何でしょうか? シャーンティデーヴァの言葉によれば、「自分自身の身と心の状態を間断なく省察すること」と定義されています。
 
 日本ではよく念仏という言葉がありますが、もともと原始仏典でもお釈迦様は、昼も夜も常に仏陀を念じよ、仏法を念じよ、サンガを念じよ、と説かれています。
 このうち仏陀を念じることがいわゆる念仏なわけですが、もちろん念仏とは、たとえば「南無阿弥陀仏」とか、仏陀の名前を唱えるだけではありません。名前を唱えるのももちろんいいとは思いますが、たとえば常にその姿をイメージしたり、心に思ったり、信を抱き続けたりすることです。
 密教においてはもっと明確に仏陀や神々の容姿を詳細に定義し、それをイメージしたりしますが、これもまた念仏といっていいでしょう。
 つまり我々は、どちらにしろ、常に何かを念じているわけです。たとえば今晩の食事を念じていたり、昨日のテレビを念じていたり、好きな異性を念じていたり、過去の失敗や恨みを念じていたり、夢や希望や恐怖を念じていたりします。この心の遊びは、サマーディに入らない限り終わりません。
 そしてそれが、ある一定方向の念が継続されたとき、それはその人の性格を形作るでしょう。これが悪い意味での念の成就ですね。
 だからここでいう念=記憶というのは、単純に脳の記憶力で記憶するという意味ではなく、なんていうか、心が記憶するというか、そういうような意味ですね。たとえるならば、自分という幻影を動かしているコンピュータのプログラムのかなり優先的な位置に、その思いがインプットされ固定されたということです。
 そして私たちは普段、カルマによってさまざまな現世的な考え方と出会い、それを念じ、それを心に植えつけています。しかし修行においては意識的にその念ずる対象を選び、聖なる情報をわが心にインプットするわけです。 その第一が、仏陀への念なわけですね。
 恋人のことをいつも考えるように、仏陀のことをいつも考えるわけです。
 たとえば、恋人同士や夫婦というのは、脳波の波形が似てくるという話があります。脳波を持ち出さなくても、顔が似てきたり、性格が似てくるという例は、皆さんの周りでも多く観ることができるでしょう。つまり「常に念じる」ということはそれだけの影響があるのです。そしてその対象を、凡夫であり恋愛の対象である者に向けるのではなく、仏陀に向けろということです。それによって仏陀に近づくだろうと。
 これはヨーガでいうとバクティ・ヨーガに近い発想ですね。ヨーガの場合は対象は神になりますが、ひたすら神のことを心に思い、口では神の名を唱え、ただ神の僕として生きるわけです。これを最も激しく実践したのがラーマクリシュナ・パラマハンサですね。もちろん、仏教ではそれだけではなく、さまざまなその他の要素が加わるわけですが、ラーマクリシュナのように純粋で単純で無垢で強烈な神への愛があれば、ただそれだけでも悟れるということです。

 次に念ずべきは仏法です。
 仏法を念ずるといっても、「仏法、仏法」と唱えるだけでは駄目です(笑)、まあ、「ブッポーソー」と鳴く信心深い鳥がいるそうですが(笑)。
 日蓮宗系の人に怒られるかもしれませんが、そういう意味では「南無妙法蓮華経」というのも、それだけでは駄目ですね。南無妙法蓮華経というのは妙法蓮華経、すなわち略して法華経と呼ばれるお経に帰依をしますよ、信じて実践しますよ、というような意味ですから。しかし信じて実践するには、実際にそのお経を読み、記憶し、理解しなければならないでしょう。
 お釈迦様の在世当事に紙に書く文書が存在したのかというのは議論が分かれると思いますが、少なくとも今のような印刷技術はないので、お釈迦様の弟子たちは、膨大な量の教えをすべて暗記していたといいます。現在でもチベットの僧院の教学のシステムなどでは、膨大な経典を暗記させたりするみたいですね。
 もちろん、単に受験勉強的な丸暗記ではあまり意味がないのですが、心にそれが根付き、自分の性格や行動のもととなるくらい、教えを繰り返し念じ続けるわけです。
 だからお経の名前を唱えても意味がないし、あるいは日本仏教のように、日本人なのに漢語のお経を唱えてありがたがっていても意味がない。お経を唱えるなら、日本人なら日本語で、しっかり心に根付かせながら唱えるわけですね。
 それは言葉で唱えるのでもいいし、日々、その仏法の内容について思いをめぐらすというのもいいですね。
 前述のように、我々は普段、世俗のダルマによって、あれやこれやいろいろなことを考えているわけですね。それをそうじゃなくて仏陀のダルマに変えるわけです。仏陀のダルマによって、あれこれと考える。イメージする。言葉を唱える。これがダルマへの念ですね。

 そして次にサンガへの念。サンガとは何かというと、もともとはお釈迦様の出家したお弟子さんたちの集団のことです。そして大乗においては、ボーディサットヴァ・サンガといって、出家していなくても、菩薩の道を歩く修行者たちもサンガと呼ぶようになりました。
 要するに、真剣に自己の解脱や、他者の救済を志して修行に励んでいる魂ということになりますね。
 サンガが中国語に入って僧ギャとなり、そしてお坊さんのことを僧と呼ぶようになりましたが、僧と呼ばれていても、その人が尊敬に値しない、修行しない、煩悩まみれの世俗的な、単に職業としてやっているだけのお坊さんだったとしたら、もちろんそんな人を念ずる必要はありません。
 サンガを念じろというのはどういうことなんでしょうかね。これは善友を持てということにつながるのではないかと思いますね。
 お釈迦様は、善友・悪友ということに対してたびたび言及なさり、かなりシビアなことを言っています。つまり悪友とは一切付き合うな。善友を見つけたら共に道を歩め。もし善友が見つからなかったら、サイの角のようにただ一人歩め、と。
 ある弟子がお釈迦様に、「善友を持つということは、梵行(清浄なる解脱へいたる修行)の半分に当たると考えてよろしいでしょうか?」とたずねたところ、お釈迦様は、
「そのように考えてはならない。善友を持つということは、梵行のすべてなのである」
と答えたお経もあります。
 つまりそれだけ友人というか、人間関係というか、人間が他者から受ける影響というのは多大なものであるということでしょう。しかしお釈迦様の時代の出家者は、仮に善友が見つからなければ、森に入り、托鉢のときに信者と接するだけで、後は一人で瞑想にふけり続けることもできましたが、現代日本の、人がたくさんいる世界で、在家である私たちが、人間を避けて生きることはできません。
 しかし少なくとも、心に念ずる友、常に思いを寄せる相手、あるいは付き合う友人は、修行者でありなさいと。特に自分より修行の進んだ先達、あるいは共に修行に励むまじめな友でありなさいということですね。
 そしてそこから発展して、大乗や密教などでは、最高の善友は自分の師であるといいます。
 よって現代的・実際的なまとめとしては、サンガを念ずるとは、自分の師がいる人はその師、修行仲間がいる人はその仲間、あるいは尊敬すべき聖者などを知っている人はそういう人たちのことを常に念ずるということですね。これはわざわざそうするというよりは、どちらにしろ我々は友達のことを考えたり、いろいろな人にあこがれたり、いろいろするわけですが、それをすべて、サンガ、つまり自分の師や、修行における善き友にしろということですね。
 もちろん逆に、自分が人々の「善き友」になることも重要です。それは単に善人になれということではありません。端的に言えば、その人がいるだけで、話をするだけで、周りの人が修行したくなるような、真実を求めたくなるような、悪を断ちたくなるような、そのような「衆生にとっての善友」に自分がなれれば最高ですね。それにはやはり自分が修行に励むことですね(笑)。

 さて、禅定についての話の導入のさらに導入の部分で、かなり長文になってしまいましたので(笑)、一度ここで切って、続きは次回にしましょう。

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